「電脳コイル」

[rakuten:book:12077213:detail]


ある本によると、現代の私たちはハード面でもソフト面でも、脳の中にほとんど閉じ込められているそうです。


現実とは、五感から入力された情報をどう脳が認識しているかというのがほとんど全てで、手で触ることができるもの、会話して文脈のある回答が得られること、そういう様々な情報から脳は「現実」というものを構築してる。でも脳が認識できるのは、物理的なものだけじゃない。例えば経済活動は貨幣という物理媒体を仲介して様々なものを交換するけど、それを仲介しないネット売買でもちゃんと成立するのは、脳が等価交換という概念を持っているからだそうだ。誰も経済活動を現実じゃないなんて言う人はいないように、脳は認識さえできれば概念もちゃんと現実に組み込むようになっている。もう少し身近なものを考えてみようかな。犬は手で触ることが出来る物体だ。でも犬にも概念としての情報がある。種類や毛色、大きさという属性情報や、鳴き声や走り方といった身体機能に付随する情報、これは手で触れないけど、ごく普通に現実として認識されてる。こういう概念上の情報をメタ情報と言うけど、もしこの情報だけ取り出して犬らしきものを作ったらそれは現実だろうか。物理的には存在しない概念上の犬。なんだか哲学的だ。


そもそもメタ情報をあたかもそこにあるように見せかけるなんて無理じゃないかと思うけど、もうその技術の一端は既に実現してる。iPhoneセカイカメラは、まだこの電脳コイルのように「街中どこでも」というわけにはいかないけど、インフラさえそろえばメタ情報をiPhoneの画面越しにポップアップして見ることができる。こういう技術は拡張現実と呼ばれてる。現実にメタ情報を上書きした「現実」。例えばお店の看板に店名だけじゃなく、ネットの口コミが漫画のふきだしのように表示されたら、いちいち携帯で検索するより便利だろうな。それにはネットのどこかの口コミサイトやコミュとかデジタル上の空間と実際のお店とがリンクしていて、さらにそのデジタル情報を見るためのデバイスが必要だ。それがこの電脳コイルで描かれている電脳空間とメガネ。物語の中で描かれる空間はかなり精度が高いけど、おおよそ今の技術の延長上にあるものだと思う。それが街全体に広がっている。そして人々、というか主に子ども達はそのメタ情報にアクセスするためのメガネをいつもかけている。この物語の子ども達は電脳の中にほとんど閉じ込められていると言ってもいいくらい。


じゃあこの拡張現実は現実だろうか。見せかけだけの作り物のいのちである犬は現実だろうか。脳がメタ情報も「現実」を構築する情報として認識するなら、答えはイエスだ。ちょっと信じがたいけど。でもこう考えたらどうだろう。情報だけではなく、それをどう認識するかということも現実を形作っているなら。作り物の犬を「かわいい」と認識するそのこともまた、現実だとしたら。この物語のまなざしは、この現実をどう認識するかを決定するもの、心に向けられていると思う。メガネをかけていない大人は、手でさわれるものだけを現実として受け入れなさいとメガネの子ども達に言う。でも子ども達は物理世界と電脳世界との区別がつかないわけじゃない。それはヤサコが電脳ペットのデンスケに対して「触れたらいいのに」とつぶやくシーンからも明白だ。彼らはちゃんとそれが単なるメタ情報だと分かっている。電脳ペットを消去されたフミエは「作り物の生き物に感情移入するなんて損なだけ」と言いながら泣く。脳が情報をどう認識するかということが現実を構築するなら、彼女達の感情は「現実」のものだ。


現実の感情には存在感がある。想像上の他人の不幸より、自分の心の痛みの方がはるかに強い。時々耐えきれなくなることもあるし、そういう逃げ場として仮想空間が利用されることはあるかもしれない。今だって、ちょっと悲しいことがあってもネットで近い気分のコメントを読んでるうちにどうでもよくなるってこともある。そういう紛らわすことが必要な時もあるけど、それでは悲しいと認識した現実を受け止めていないことになる。この現実に向き合うということはなかなか大変な事なのは誰もが知っていて、逃げる方がすごく楽だって言うのもみんな知ってる。それでもこの物語は、大丈夫だよと語っているように思う。現実を認識できるんだったら、痛くてもちゃんと向き合うこともできる。ラストにかけてのイサコとヤサコのシークエンスは、そういう心が持っている本来の力を強く肯定している。


未来の「現実」はきっと変わって行く。脳が認識する物理的なものだけじゃなく、電脳が認識するメタ情報も現実の中に組み込まれて行くだろう。それでも現実の中心に、心があるのは変わらないはずだ。電脳コイルはたぶんそういう物語。




キャラクターで一番印象的だったのはメガばあでした。汚れたコンピュータおばあちゃん。将来あのくらいギークなばあさんになりたい。