ファイト・クラブ

小さな親切があるなら、ささやかな悪意があってどうしていけないのか。親切が奨励されるのは悪意というものは無意識に行われてしまうから、意識的に親切でなければこの世は立ち行かないよってことなんでしょう。まあそうでしょうねえ。意識的に小さな悪事を働かなくても、生きてるだけで他人に害を与えてる可能性はありますからね。だからみんな「意識的に」仲良くしよう。ちょっとあいつは気に入らないけどしょうがないよね「お互い様だもの」。そうやって世の中には小さな親切やさり気ない善意を蔓延させようという暗黙の圧力が存在します。でも親切って善意って個々の価値観や感覚によっては重さが違いますよね。大きなお世話だったり全然重みを感じない善意だったり。だったら逆にささやかな悪意が誰かにとってすごく重みや意味を持っていたりしてもいいはず。この映画はそういうささやかな悪意の可能性を探る物語なんじゃないかな。あ、ちなみに悪意が善意に変化するものではないですよ。この映画は最後まで悪意に満ち満ちているんですから。むしろそういう善意や親切に中指突き出してるようなポーズの映画ですね。この映画がなぜ大々的ではなくささやかに徹しているかというと、小さな親切が実践的であるからということだからだと思います。まあこの映画のささやかな悪意も日常で使えるものばかりですよ(笑)もう一つは悪意というものは人の記憶に残るからです。良いことをされてもすぐに忘れるけど、ひどいことをされたらけっこう覚えてるものでしょ?人の記憶に残るものには技巧が必要なんですよ。悪事を働く悪役があたかも芸術家のような描き方をされる場合があるのは(バットマンのジョーカーというのはそういう一面もあると思う)、彼らが実に繊細に自分の美意識を行動や言葉で表現するからです。そこには人の記憶に残るという意識があるはず。この「ささやかな悪意」にも同じように緻密な技巧とそんな人の記憶に残るものへの美意識がある。だからこの映画は面白いんですよね。

そしてもう一つは言葉の物語でもあると思います。カリスマ性のあるキャラクターで人々をファイト・クラブに引き寄せついには大掛かりな「悪戯」に突っ走って行くタイラーという人物は、言葉そのものです。タイラーは人の意識を動かし、ついには現実を動かす。そして主人公はそんなタイラーに振り回されていくんですよね。一人歩きする言葉に。