猿の惑星:新世紀(ライジング)


公開からだいぶ経ってしまいましたがようやく観てきました。


あらすじ
認知症治療の一貫として開発されたウィルスにより知性を得た類人猿(Ape)は、高い身体能力と知性で人類の支配から独立した。それから10年。類人猿たちは森の中で本来の穏やかな暮らしを営んでいたが、一方で人間たちは後退した文化を細々と支えて数を減らしながらも生きながらえていた。人間たちは遺棄された電気発電所が類人猿たちのテリトリーの中にあることを突き止め、なんとかそれを稼働させようとする。類人猿たちのリーダー、シーザーは人間たちとの間に争いが起こることを懸念し対話で解決しようと試みるが、類人猿と人間、双方の側に争いを望む一派がそれに反発する。



前作、その圧倒的な身体能力で人類を瞬く間に追いつめ、その支配から脱却した類人猿たち。そして文明を徹底的に破壊され絶滅危惧種にまで追いつめられた人間たち。今作は双方の交渉と闘争がメインに描かれています。
この構図は対類人猿でなくとも、人間同士でも十分にあり得るのではないかと思うんですよね。過去のシリーズが東西の文化の違いや人種の違いをテーマに扱って来たように、今作でも平和を望むか闘争を望むか、という思想の違いに焦点を当てていると思いました。映画のファーストカットとファイナルカットも人間か類人猿か分からない、目のクロースアップで、そういう部分を表現しているのかな、と思います。
それとはもう一つ、文明の話でもあると思ったんですよね。こちらの方をちょっと掘り下げて書いてみたいと思います。

知性の灯りか、闘争の火種か

知性を得た類人猿たちは人間のように服を着たり、文字を書き記したり新しい発明をしたりということはしていません。類人猿たちは自分たち本来の暮らしを頑なに守り、人間のように便利だからという理由で不必要な改善はしていないようです。彼らは文明化を忌避しているんですね。それでも火を使ったりコミュニケーションに言語を用いたりと、元の類人猿とは異なり多少の文明化は許容しています。
一方、人間は電気を失い衰退した文明の中で生き残ることに必死です。服を着なければ寒さをしのぐこともできない人間は、火の他にも様々なもので武装しなければ言葉を失い、やがて生存競争の中で弱者として滅びて行く以外にありません。電気をはじめとする、文明に必要な灯り(シーザーが電気という人間の説明を受けて、「つまりは、灯りだ」と答えるシーンがあります)は、人間には絶対に必要なものです。文明は知性から生まれて来た灯り、とも言えると思います。
類人猿たちはその文明に頼らない暮らしをしていますが、彼らとしても知性を得てしまった以上その灯りにかつてのように無自覚ではいられません。人間が発明した抗生物質は彼らではどうしようもない重篤な患者を救い、文字や音楽といった、誰かに何かを、物語を伝えるための手段は彼らの好奇心をかき立てます。これを観ているとこういう知性の灯りは、知性のある生き物の、悲しみや寂しさを癒したいという根源的な感情から生まれてきたのではないかと思うんですよね。そういう優しさを持つ一方で、生き物には闘争本能も備わっています。暗闇を恐れ、痛みや憎しみを感じるこころ。そのこころが知性の灯りと結びついたとき、武器が生まれた。類人猿たちも原始的な木の槍などを持っていますが、その殺傷力は基本的に制御可能です。でも怖れを感じる心に歯止めが利くということはありません。それがエスカレートしていくと、たった一つの銃弾で充分なはずなのに、過剰に装填できてしまう銃が生まれてしまう。闘争の火種が生み出すのは、戦争なんですよね。
この作品の中では分かり易く、平和を望むものと破壊を望むものとに分かれています。これを観ていると、そういう闘争の火種を抱えてしまった者はどうすればいいのかということを考えさせられます。コバは、ドレイファスは、どうすれば良かったのか。夜明けというにはあまりにも暗い空を背に立つシーザーの顔には、その火種を受け取った厳しさが現れているように思いました。

キャスト・セットについて

キャストはやっぱりドレイファス役のゲイリー・オールドマンが素晴らしかったです。類人猿への憎しみを露にする獰猛さと、電力が復旧した後にタブレットに保存された家族の写真を見て涙ぐむ繊細さを同時に表現できる演技力が本当によかったです。この人、悪役もこなすから出演してても「今回はどっちだ?」と推測できないのがいいですよね。
廃墟と化したサンフランシスコの風景は、ゲーム「ラスト・オブ・アス」そのままで思わず「ゲームみたいだ!」と思いました。いや、ほんとあの植物とか避難中に乗り捨てられた車とか、遺棄された急ごしらえの医療所みたいなところとか似てるんだよ。まあ襲ってくるのはゾンビじゃなくて猿なんですけどね(笑)