一人の作家のファンになるまでのこと


屍者の帝国」を観てきました。今回は感想ではなくちょっと別のことを書こうと思います。感想はまた後日。


小説の方では未完で終わった伊藤計劃さんのパートをプロローグとし、残りを円城塔さんが引き継いで完成させています。そういえばこの引き継ぎの発表があった時のことはなんか覚えてますね。「道化師の蝶」で芥川賞を受賞された2012年でしたか。それまで「Self-Reference ENGINE」しか読んだことがなくて、しかもSFを読んでいてたまにあることなんだけどよく分からなかった。芥川賞の受賞もすごいな、とは思ったけど受賞作は読まないだろうなあと思ってたくらいでした。でもあの未完の小説を引き継いで完成させる、というニュースをツイッターで見てから、このままじゃだめだ理解できないと思ったんですよね。いくつかのインタビューや伊藤計劃さんのブログなどを読んでいて、作風は違えど彼に匹敵する書き手は円城塔さんしかいない。あとは読み手の問題です。
オブ・ザ・ベースボール」で不条理ながらも奇妙な爽快さを味わい調子にのって「Boy's Surface」でまたどん底に落ちつつもなんとなく女子っぽい文体が好きになり、「後藤さんのこと」で少し物語の構成が見えるようになって、短編で読んだ「良い夜を持っている」でようやく楽しさを見つけた、そんな感じです。その間にも「バナナ剥きには最適の日々」は半分は楽しく読んだけど半分は理解不能だったし、SREも読み返したらなんだか面白かった。それでも作風に追いつけたのはかなり最近になってからなんですよね。「屍者の帝国」も最初は分からなかったなあ。ただなんとなく字面が無意識に流れてくるような、難解ではあるんだけど妙なリズム感があって最後まで読み通して。エピローグを読んだとき飛行機に乗ってたんですよね。思わず涙ぐんでしまって恥ずかしかったのを覚えています。そして二度目に読んだ時にすごくいい物語だと思えた。
伊藤さんとの共同インタビューで円城塔さんはこう答えています。

描写するって疲れるじゃないですか、単純に。僕は捉え方がすべて紋切型なので、出てくるのは「草っ原」とか「木が生えてる」とか「青空」とか、漠然としたものばかりなんですよ。『虐殺器官』はすべてディテールが決まっているじゃないですか。僕にはできないんですよね。その場にいる人の数とかを考えたくない。
伊藤計劃×円城塔 「装飾と構造で乗り切る終末」より)

この作風は今も変わっていないような気もしますが。このようにディテール(装飾)ではなく物語構造によって読ませる作家である円城塔さんが、人の数をきちんと数えてしかもアクションまで盛り込んだ。もちろん「言語と意識」というしっかりした構造の上に、そんなディテールまで網羅したことがなんだか嬉しかったのです。
二度目でようやく読めた「屍者の帝国」はどこかとぼけた柔らかさと構造の鋭利な断面を見せるようで、かなり夢中になって読み通しました。そして私はすっかり円城塔さんの作品のファンにもなっていました。「屍者の帝国」から始まった、一人のSF作家との出会いです。
そんなこんなで3年が経ちました。
映画を観に行ったはずなのに劇場で「屍者の帝国、入場を開始しました」とアナウンスがあった時に、なぜか「ああ映画になったんだな」とすごく実感したんですよね。そのものの映画を観に来たのに。そしてスクリーンに表示された「伊藤計劃」と「円城塔」の文字に不思議な感動があった。なんだろう、この二人から始まったものの一つの完結したかたちを見たからかな。
まあいつか、円城塔作品の映像化があれば喜んで観にいきます。って今、ネットを調べたらなんかアニメ?の脚本書いてるの!?なんだそれ、見てみたい…。