おいしいものって難しいなっていうこと


今日は食べ物の話をします。
秋なのでおいしいものがわりと出そろってますね。果物に野菜、魚などなど。おいしいもの。あんまり好き嫌いはない方だしアレルギーもないので、わりとなんでも「おいしい」と食べる方です。というか、「おいしい」のしきい値が低いんですね。食べ物で不快な思いをした記憶がないので幸せなんですが、たまに困ることがあります。


おいしいもの。大抵の食べ物をおいしいと感じてしまうと、いざおいしいものを食べようとすると見つかりません。逆じゃないの?なんでもいいなら好きな物食べたらいいのでは、と思うんですが、「おいしいもの」が漠然としていてしかも選択基準がはっきりしていないので、これといったものが思い浮かばないのです。おいしいもの。うーん。お出汁が効いてる煮物とか、イタリア料理でもトマトとか旨味があるものとか、韓国料理の参鶏湯とかかなあ。旨味成分が一つの基準のようです。グルタミン酸とかイノシン酸とか、ですかね。


食べると脳に電気が走るような感じ(笑)「おお!おいしい!」と舌だけじゃなく、脳が反応するような感じ。あ、でも汗をたくさんかいた時に採る塩味の身体が全力で欲求してる感じも「おいしい」ですよね。「おいしい」という体感がほしいっていうだけなのかもしれない。何を食べたいか、じゃなく。


先日読んだ本の短編にこういう作品がありました。
死刑囚に出す最後の晩餐を料理する料理人の物語。この最後の晩餐は死刑囚が自分自身でその刑を受け入れられるほどに、おいしく彼らを幸せにしなければならない、というもの。吉上亮さんの「未明の晩餐」です。
「おいしい」に対する客観的なアプローチと脳科学ネタの絡みがとても面白い作品でした。そう料理を、食材の温度による変化や調味料による材質の変化という視点で見れば、十分に科学的です。何度も失敗したシュークリームの皮を作る時に私が最終的に思いついたのは、タンパク質が固まる温度を意識すること、でした。


そうだとすれば「おいしい」も科学的であっていけないことはないはず。ですが、まあやっぱり「おいしい」は伝統的に洗練されてきたものに従うのが最適解だと思います。というわけで、とりあえずなにかおいしいものが漠然と食べたいなあという時は、出汁をとることにしています。