小説が映画化されるということ


メタルギアソリッドのノベライズをのぞく、伊藤計劃さんの小説三作品が映画化されました。


虐殺器官 - ここでみてること

ハーモニー - ここでみてること

屍者の帝国 - ここでみてること


小説には小説の、映画には映画の良さがあると割り切っているのでどれも楽しく観ました。


「ハーモニー」は最近また観直してみたのですが、なんだろ最初に観た時に感じた「小説の焼き直し」な印象があまりなくて、すごく切ないラブストーリーだったんだなあと改めて感じました。
小説ではミァハとトァンは二人で一つの役割を別の立場から担っている(と、伊藤さんのブログにもあるように「ファイトクラブ」を意識している)ようなイメージがあったのですが、映画の方はミァハはともかくトァンは目の前の存在を他者として意識していると思うんですよね。「私たちのイデオローグ」と称するトァンのセリフには、憧れと畏れと共にどこか恋い焦がれる気持ちがあるように感じました。「ずっと私の好きなミァハでいて欲しい」というきもち。そしてそれを上手くラストにつないだなあ、と改めて思いましたね。


虐殺器官」の主人公クラヴィスは、職業として軍人であるために戦闘にリアリティを持たないよう調整されています。それは「まるでゲームでもしているかのような」(メタルギアソリッド4にもこういうシステムが登場する)現実感の中で生きているわけです。映画の中で時々使われるFPSゲームのようなカット、生きるか死ぬかの戦場なのに軽口を叩く戦友、そういう「現実感を奪われた」ことに対するリアリティがすごく良く出ていたと思うんですよね。致命傷をくらっても痛みを感じない、まるでこのターンはいったん諦めて次のコンティニューでも一回リトライしようというような。


屍者の帝国」は小説がすごく好きで、わりと読み返したりしている作品です。これは映画化では屍者フライデーの設定を大幅に変えて、死別の悲しみと科学への過信と慢心をうまく絡めたストーリーになっていてとても面白かったですね。なんだろう、この小説は、人の意識は言葉で支えられていて「生きている」言葉と「死んでいる」言葉との違いだけだ、という仮説でいろいろ遊んでるお話だと思うんですよね。でも映画の方は、魂というなにか生きている人間だけが持ちうる尊いもの、その視点の焦点を結ぶなにかを生成する言葉があるはずだ、と、宝物探しの要素があるように感じました。主人公ワトソンには、どうあってもそれを手に入れたい強い気持ちがあって、それがすごく切なかったですね。


うーん、原作を先に知っているとやっぱり映像化の際には「ここはあのシーンだ」とどうしても意識してしまうし、まあそういう部分を確認したくて観にいってる部分もあります。「虐殺器官」のアレとか。でもそうじゃなくて映画として脚色された中から物語をどう読み取るかは、小説とはまた別の作業なのでしょう。
三作品ともまた時々観直したい映画でした。