ファースト・マン

観てきました。

初めて月に到達した人類、ニール・アームストロングの史実を元にしたお話。

 

これまでいろいろと宇宙に関する映画を観て来ました。最近だと2001年宇宙の旅のリマスターとかね。なんとなく宇宙映画に共通するのは、宇宙に飛び出したぞー、とか地球と全然環境が違うぞーというような舞台を地球ではない場所に持っていった、というだけじゃなくて宇宙に出たら人類の精神はどうなるんだろう、外から地球を観たらなにか感銘をうけんじゃなかろうか、とかそういう精神性を強く内包する映画が多いと思うんですよね。まあスター・ウォーズみたいにぽんぽん宇宙に飛び出しちゃってる映画もあるんだけど。

2001年宇宙の旅では人間個人のライフサイクルと人類という大きな枠組みのライフサイクルが描かれていたと思うし、「メッセージ」では宇宙に飛び出さずに異星人の方から来ちゃうんだけど、その異星人の言語体系と接触することによって運命論的な視野を持ってしまった人間の心の在り方とか、宇宙に触れることによって人間はどう変わっていくのか、というテーマの宇宙映画が多いと思うんですよね。

 

で。この映画はというと、人類未到達の月の地へと赴く過程を描きながらも心はずっと地上にあるんですよね。この映画がホームビデオのような荒さと手ブレで繋ぐシーンが多いことからも、主人公の心はずっと地球、それも家族や知り合いというとてもローカルなところに常に在り続けている。え、宇宙に行くのにそんな普通の気持ちなの?なんかこう、哲学的な視野とかないの?だって、彼、ニールはあの有名な台詞を残した人物なのに。でも、そこがこの映画のすごいところなんですよね。こういう宇宙映画は初めて観た。宇宙映画でこういう描き方があるんだ!って。そして、ちょっとネタバレるから後半に書くけど、主人公のあの儀式は月でなければだめだったと思うんですよね。どこか地球の遠い場所ではなく。

 

 

 

 

 

 

 

 

ネタバレ

この映画、冒頭から死が存在してるんですよね。娘の死、同僚の死、そして主人公もまた「死ぬような」恐ろしい訓練を何度もこなして帰還する。あの薄っぺらい金属板が今にも吹き飛びそうな音を立てて振動するシーンはものすごく迫力があったなあ。史実を知っているからここでは死なないと分かっているのに。そう、史実を知っているとすごく辛い映画でもありました。あの三人の宇宙飛行士のくだり、直前まで軽口を叩きあってたのにほんの数秒で事故に巻き込まれてしまうシーンがいたたまれなかったなあ。 ああ、この人たちはこのあと死ぬんだ。しかも密室で炎に焼かれながら。

 

このシーンもそうだけど、宇宙に飛び出すロケットそのものが棺桶のイメージをなぞっているようにも思うんですよね。狭く、暗く、密閉されている。あの金属のドアが閉まり、外からボルトで閉められる時、ほんと生きた心地ではなかっただろうな。それは冒頭の娘の棺桶が地中に降りて行くシーンにも被っていて、宇宙に行くために棺桶に入って一度死ななければならないというメタファーでもあるのかなと。そうすると月世界はあの世なんですよね。死者たちの魂がたどり着く場所。訓練中に死亡した三人も、他の飛行中に亡くなった人たちも、天国よりもきっとここに来たかった。天国という概念を得る前に死んでしまった彼の娘は分からないけど、でも彼はその場所を娘の弔いの場所として選んだんですよね。映画では宇宙への挑戦と個人的な弔いの儀式を同列に置いた。ここがね、ほんとすごいと思う。

死を悼むのは、人間だけ。そして月にまで行こうとするのも、人類だけ。世界中の人が見守る人類史上でも最大級のイベントの最中に行われる、とてもプライベートな儀式。これほど大きなイベントだからこそ、その個人的な行動が際立つような、そういう映画でした。