空白を確認するっていうこと


去年の話。「屍者の帝国」の劇場版アニメーションを観に行った時に、「伊藤計劃」という文字がスクリーンに現れた時になんだか久しぶりに思い出しました。彼がこの世にもういないっていうこと。
いろんな場所で、いろんな人が、それぞれの時間で語るのをなんとなく眺めていて、ここまでミームとして完成していればもう大丈夫なんじゃないかと、忘れ去られることなんてないんじゃないかと、なんだかいつの間にかそんな風に思っていて、そんな中で喪失感がどこかに行ってしまったように感じていました。確かにあの時、7年前に感じたようなものは今はもうなくて、時々小説やエッセイを読み返しても、そういえばこの言葉の続きはないんだったな、と寂しさよりも諦めるより他ない気持ちでいることが多くなりました。
そんな風に思えるようになったのは、いいことなのか。
以後、と呼ぶのはあまり好きではないけれど、彼の作品に影響を受けた作家さんが今の日本のSFの少なくない部分を占めている状況はとても嬉しい。それに著作がゲームのノベライズというだけではもったいない才能を持つ野島一人さんのテキストにも出会えた。小説の三作品がアニメーション映画として上映され(一作品はまだ未公開だけど)、非公式ながらも実写映画化の話もある。喪失を埋めるように作品は読み込まれ、何度も解釈されて、新たなかたちを得てミームとして伝播して行く。


でも。
METAL GEAR SOLID Vのあの物語の解釈が読みたかったし、2009年以降に上映された映画で感想を読みたいと思った作品がたくさんあるし、イーガンやバチカルピのSF作品のレビューももっと読みたかった。ブログのちょっと難解なギャグに「ふーん…?」ってなりたかった。そしてなによりも、あの繊細でありながら強いちからのある物語をもっと読みたかった。
どれだけ埋めるものが増えても、代えがきかない。そんなオリジナルを確立できるだけのあの才能はもう、どこにもない。そこには永遠に埋められない空白があって、誰も、どんなものも、どれだけの時間を費やしても満たされない。


一日遅れたけど。そんな空白を確認する日。