「2012」



TVスポットや予告のど迫力映像に並々ならぬ期待を抱いて観に行ってきました。もし、レンタルでいいや、と思っているならそれは間違っている。今年はかなり映画館で(火薬量の多い)映画を観てきましたが、本当に手に汗握りました(笑)これは面白かった!


今、世界には本当に色んな娯楽や趣味があって、個人がそれぞれに楽しんでるんですよね。情報も簡単に手に入るし、同じ興味を持ってる人たちが(オンでもオフでも)知り合う機会も飛躍的に増えた。そうやって個々が持ってる部分を重ね合わせながらどんどん拡散している状態だと思うんですね。一つにまとまることがなくて、みんながちょっとずつ繋がっている。そういう世界で、みんなが一つになれることってなんだろう。どんな人でも関心を持ってしまう引力を持ったもの。地球という母体がある日壊れ始めたら、きっとどんな人でも無関心じゃいられない。ネットなんかしてる場合じゃないですよ。そういう状況にもしなってしまったら、嫌でも一つにならざるを得なくなる。ヒトが人になる過程で得て来た個というものを脱ぎ捨てて、もう一度種としてのヒトに帰らざるを得なくなる。でも、今さらこん棒に獣の皮を腰に巻いたヒトに返れるわけじゃない。今さらネットのない時代になんか戻れない。既に生き物としてのヒトと、個としての人と、二重に生きてるんですよね。この物語はその根本のヒトに強制的に振り落とされてしまう。文字通りどうしようもない現実の前で、遺伝子やミームといった長く長く細々と伝えられて来たものが、手を差し伸べる暇もなく次の瞬間には断層に飲み込まれ、津波に攫われて行く。多くの人に愛されている貴重な文化財から、ささやかな個人の存在を示していたものまで、あっけなく失われていくんです。でもその中でも、本当に奇跡的に残るものがある。登場人物の一人は、こんなことを言います。
「この本の作者はもう死んでしまったかもしれないけど、でも、僕は(この本を)読んだ」そうやってささやかな何かが続いて行くという希望が、途方もない絶望の中でさり気なく描かれていて感動しました。


ある日突然「終末が来ました」って言われたらもう、どうしようもないですけどね。自分や家族が死んで行くんだと分かった時、祈る対象があるというのは幸せだなあと思いました。私は多分生涯そういう対象を決めることはないだろうけど(かと言って無神論者ほど冷静でもいられないけど)、古くから信仰されている宗教は本来こういう時に機能するものだったんでしょう。大昔、まだ人が自然の中で暮らしていた頃は、ほんの些細な自然災害でも致命的だっただろうし、医療も未熟であればなおさら天命を待つしかなかった。そういう時に、きっと何か具体的な何かが必要だったんじゃないかな。


まあ、本当に多種多様な登場人物が出て来て、それぞれに人生があって、色んな事を考えましたね。ちょっとネタバレしてしまうかもですが、登場人物の中で一番いいなと思ったのは、ロシアの富豪のおっさんでした。若い頃はボクサーだったという彼の、他人を蹴落としてでも生き残るぞっていう冷酷さの一方で、なんとか子どもを助けようとする一人の父親という人物造形が、少ないエピソードの中で巧みに浮き彫りになっていて良かったです。こういうエピソードって、少ないからこそ観客の想像の中で美しい形で補完されるんだと思うんですよね。
そして、こういう登場人物たちの命の瀬戸際で交わされるそれぞれの主張が、誰一人として間違えていないんですよ。誰の意見にも正しさを感じるんです。保守的であっても、理想的であっても、「そうだね」って頷ける。でも、どれか一つを選ばなきゃいけない。限られた時間の中で、彼らは本当にぎりぎりの選択をするのですが、その基準としたものがとても印象的でした。それはもしかしたら理想的すぎるのかもしれないけど、人類に属するような大きな賢さのようなものを感じましたね。


それにしても、予告でも度肝を抜かれた映像効果でしたが、凄かったの一言に尽きました。心の中では「あ”ー落ちる落ちる落ちる〜!」って叫んでましたわ。ははは。そんな息を飲む素晴らしい映像なのに、この監督は何故かそこに地味なネタを仕込んで来るっていうか、火山大爆発の手前で汚いおっさんの尻を晒すとか、胴体着陸中の危機の中でユルい笑いを仕込むとか、いったい何がしたいんだ。なっちゃんオレンジを思いっきり吹き出すところでした。気になる人は劇場でぜひご確認を。