なんとなくだらだら


さっきからテキストエディットを開いたままぼんやりとネットを眺めておりました。まだ書いてない本の感想を早く書いておきたいんだけど。何かを書いておきたいようで、そのなにかがよく見えない感じです。まあこうやってだらだら書き始めたら見えてくるかも。


えっと、先日「虐殺器官」を読み直しました。諸事情により映画が延期になってしまったみたいですが、遅くなっても公開されるといいなあ。
小説を改めて読むと、一見シンプルなストーリーの中にいろいろなテーマが絡み合っているのが分かります。その中でも印象深かったのが、「自分の意志」。主人公クラヴィス・シェパードは常に自分の意志の存在の不確かさに揺らいでいます。

俺たちは政府や誰かの道具じゃない。戦うことでしか自分を表現できなかったが、いつも自分の意志で戦って来た。
メタルギアソリッドより)

これはメタルギアソリッドの中で、主人公ソリッド・スネークの仇敵であり戦友でもあるグレイ・フォックスの言葉です。
ソリッド・スネークは、グレイ・フォックスは、自分の意志で戦ってきたと言う。それでは「自分の意志」とはなんだろう。それを抜き取ってみた差分が虐殺器官なのかもしれない、と思うんですよね。
自分の意志が本当に確かなものなのかも分からずに、戦うことでとりあえずの「自分」を表現する、政府や誰かの道具としての兵士。その結末も振りきっています。クラヴィスは「自分の意志」で何かを決断したかのように見えて、ただ「誰かの意志」を継承したにすぎない。ここに描かれているのは逆説的な「自分の意志」の存在なのかも。メタルギアソリッドでは途中までソリッド・スネークは状況に翻弄され、自分の意志とは関係のない事柄に巻き込まれて自分で判断することもままなりません。「ゲーム」を強いられているんですね。それではクラヴィスにとって自分を取り囲む世界は何なのか。少しずつ明らかになっていく謎の敵ジョン・ポール。彼を追跡する過程はまるで「ゲーム」です。この二つの「ゲーム」はどう違うのか。一つは、プレイヤーの不在。まあこれはMSGVをやったせいでもあるんだけど、ソリッド・スネークにはプレイヤーというメタ的な存在があるのに対して、小説の中のクラヴィスにはそういう存在が在りません。なにが彼を動かしているのかというと「自分の意志」ではあり得ないんですよね。「ゲーム」自体が彼を動かしている、まるで中身の無いNPC(None Player Character:ゲームで用意されている、自動で応答するキャラクター)のように。
メタルギアソリッドが「ゲーム」の外側(outer)へ何度も脱皮を繰り返す物語であるなら、虐殺器官という「ゲーム」はその内側を食い破っていく、自分の意志を持たないキャラクターがAIのようになり、やがてその「ゲーム」そのものを崩壊させる物語であるのかもしれません。


まあ、最近のゲームのAIってほんとすごく性能がいいですからね。いつか彼らが「あれ、この世界ってもしかしてゲームじゃ?」なんて気がついたら、少し前のイーガンぽい感じになりそう(笑)


あーなんかけっこう書けた感じがする。本当は書く前にある程度まとめてから書けばいいんだけど、書きながら探っていく方がなんだか性に合ってるんですよね。まあおかげで脈絡とかオチとかちゃんとしてないんだけど。まあいいや。