今日が終わってしまう前に

2001年9月11日、その日は普通に仕事をして家に帰ってぼーっとテレビを見てたら映画みたいな映像が飛び込んで来て、でもきっと私にはあまり関係ないことだと思って寝てしまいました。翌日、同僚と「なんだか映画みたいだね」と話していてて、その現実感がすっぽりと抜けてしまった奇妙な感じがしたのをよく覚えています。
2011年3月11日、その日、地震が起きた時、トルコのイスタンブールに居ました。バザールの両替屋のおじさんが「ニホンが大変みたいだよ」と心配そうに教えてくれたのに「ああ大丈夫ですよ」なんて答えていたけど、その後フェリーで見たCNNの速報で、大量の物が陸地に押し寄せ、ところどころ炎をあげている映像にひどく驚いて、遠い地で未曾有の大災害を見るという奇妙な経験をしました。

これらの事件の後も私の生活はほとんど変わっていません。仕事に行って週末は映画を見て、本や漫画を読んだり、そう言えば登山を始めたくらい。
でも私が触れて来た数々の創作物には確かにその影があるはずです。はっきりとそれと分かるものもあれば、読み解かなければ分からないようなものまで。
同時多発テロは、私の中ではフィクションから現実への逆流でした。映画みたいなことが現実に起ってしまったということが、まるでスクリーンからそのまま飛び出して来たような気がした。そしてあの日から世界は結末がよく分からないまま、だらだらと描かれる映画のようになってしまったような気がします。
東日本大震災は、私の中で「経験していないもの」として残ってしまいました。私はその揺れを知らないし、ただただ映像の中の出来事としてだけしか経験し得なかった。そして家に戻ってニュースを見ている傍ら、ずっとツイッターを追っていました。その時の、情報がいっせいに同じ方向を向いている感じ、砂鉄に磁石を近づけたように、情報が一つの方向を目指して巡って行く流れがそこにあるような気がして、それを必死に追いかけようとしていたように思います。経験していないものをどこかで埋めようとしていたのかもしれません。

2001年からずいぶんと時間が経ちました。3月11日からも既に半年が経過しています。10年から見えるものと、半年で見えるもの。それぞれの出来事が人々に受け入れられ、様々に解釈されてそこから生み出される創作物は今後も変化していくことと思います。その時々で答えを出しながらその変容をこれからも見て行きたいと思います。