「ブラックホーク・ダウン」

ブラックホーク・ダウン [DVD]

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人間が繁栄しようとする時、そこには何かしらのエンジンが要ると思うのです。都市というハードウェア上に実装された社会というエンジン。金や人というリソースを入力として、そのエンジンは繁栄を生成してきた。でも、繁栄を正の出力とするならば、負の出力もある。車のエンジンが推進力を得る代わりに排気ガスを出すように。それを戦争というのだと思います。
アメリカという国は、そのエンジンを象徴する国でもあります。だからこそ戦争に対して、自分達の繁栄の代償という負い目を感じるのでしょう。それが他国の内政に干渉するようなことであっても。
一方、その負の出力を入力としているエンジンが存在します。それを象徴しているのがこの事件の舞台となるソマリアです。戦争を入力として推進し続けるエンジンの出力は、当然ながら戦争以外ありません。だからこの土地からは戦いが無くならない。そしてそのエンジンを理解する指導者はそのことを受け入れ、戦って生きて行く事を選ぶのです。
この映画では、この二つのエンジンがまったく噛み合わない違和感で溢れています。負い目を感じるアメリカは理想を掲げてこの土地から戦争を払拭しようとします。けれどその理想の軽薄さは、基地に流れるロックのように軽やかで、理想を語る兵士はそれが夢物語である事を半ば自覚しています。なぜならそれは本当の理想ではないから。その核にあるのはただの負い目であって、信念ではないからです。そしてソマリアはまったくの信念、ほとんど執念でもって生きるための戦いを選択します。人々は集まり、暴力的なエネルギーでもって理想を排除しようとするのです。
そしてその違和感はラストのマラソンのシークエンスで最大化します。アメリカの理想の到達点としての現地の人々の笑顔と歓迎、ソマリアの信念の到達点としての部外者の排除(逃走)。
これはエンジンの本質を受け入れた側とそうでない側の強さの物語であると思います。


映画の描写について:
ホラーなどの人体損壊の描写がまったく苦手なんですが、何故かりドリー・スコット監督の描写だけは耐えられることに気づきました。今回もなかなかひどい描写があったんですがねえ。多分、物語の視線がすごく淡々としているからなんじゃないかと思います。視線というか意図というか。そこに怖がらせようという意図も、気持ち悪いものを見せようという自意識もあまり感じられなくて、物語の展開上、当然の結果としてこうなる、という冷淡な視線だからなのかもしれません。
秀逸だなと思ったのは、暴徒と化した現地人に追い回されて市街を逃げている途中で、息子と思われる男の子が自分の父親を誤って撃ってしまった場面に出くわした兵士のシーン。一人の人間にトラウマが焼き付いた瞬間に立ち会ってしまった兵士もまた、逃れられないものを背負ったという場面が、役者の演技とカット割りだけで展開していてとても良かったです。