海炭市叙景

造船と漁業を中心産業とする歴史ある架空の街「海炭(かいたん)市」に生きる人々の情景を乾いた眼差しで描いた映画。

国内でも海外でもどちらでもその街に昔から住んでいる人なんだろうなあ、という人を見かける事があります。なんだろ、街そのものがその人に染み込んでいるような、そんな感じ。街と共に生き続けている人なんだろうと思います。そしてそういう人はこの先もずっと街と一緒に行きて行く。そういう人のまわりに漂っている空気って観光地にある浮かれた華やかさなんて全然なくて、むしろ疲れていてわびしい雰囲気であったりします。市場の陽気なおばちゃんにも、ふとその皺の隙間にそういうものが滞っているように感じるんですよね。その疲れやわびしさは一体なんなんだろう。その答えの一つがこの映画にありました。登場人物の一人である、造船所事務員の井川帆波(谷村美月)は元旦、初日の出を見に出かけご来光の美しさに心を奪われるのですが、そのあと家に帰ろうとしません。彼女は同じ造船所で働いていた親を事故で失い、兄と二人で慎ましく行きて来ました。しかしその造船所も人員削減で兄ともどとも職を失ってしまいます。彼女はこう呟くのです(ちょっとうろ覚えですが)「またあそこに戻ってしまう」と。ご来光という非日常からの帰還を拒絶するんですね。何故なら日常はどこまで行っても閉じていて抜け出すことができないから。この閉じているということがもしかしたら街と共に生きている人にそういう空気をまとわせているんじゃないかと思うんですね。

例えば映画「フラガール」や「リトル・ダンサー」は地方都市の貧しさや絶望を物語に織り込んでいても、外部から別の人がやってきたり、自らそこを抜け出すという変化があり、その変化を希望に結びつけていました。けれどこの映画にはまったくそういう希望はありません。時代を超えていくつかの「年越し」を描いて入るけれどテレビのニュースは決まって主力産業の衰退を流し「いつの時代も変わらない」という歴史の部分を闇の方から描いている。なぜこの映画は希望ではなくそっちを選んだんでしょう。絶望というにはあまりにも漠然としているそういうもの。それは一つに、街というものの輪郭を表そうとしているんじゃないかと思うんですね。輪郭って閉じてなきゃいけないから。そう考えると、親子の関係を無意識に繰り返しているガス屋の社長のエピソードも、毎日毎日プラネタリウムを上映し続ける中年の男も、路面電車の運転手とその息子のエピソードも、どこまで行ってもまた同じところに戻ってくるんですね。外に出られない。でもその輪郭をじっくりじっくり辿って行くとその街の横顔が見えてくる。映像として映っている街並ではなくて、人々の人生を支えている精神的な器のような深くて冷たいもの。言葉にするのが難しいのですが、そういう感じがしました。

私はこの映画のモデルとなった函館市(正確にはその周辺の街)で育ちました。「海炭市」という名付けからも分かる通り、特定の地方都市を題材にはしていないので他の地方都市の人でもこの映画の閉塞的な情緒は理解できるんじゃないかなと思います。でもあの薄曇りの寒空と身を切るような寒風のリアルさはこの街の人のものじゃないかなあとも思いましたね。ラスト近くに路面電車の父親と上手く分かり合えない息子(浄水器を売っていた)がフェリーから臥牛山*1を見つめるあの風景は、私の原風景だなあと感じました。あとどーでもいいことだけど、劇中「サビオ」と言っているシーンがあるんですが絆創膏のことです。これはちょっと地元じゃないと分からないかも(笑)

*1:函館山。地元の人は「牛が臥せた形に似ている」というところから臥牛の山と歌にすることもあります