フランケンシュタイン

青空文庫で読みました。

18世紀イギリスの探検家ウォルトンは、北極を目指して出発するも途中で氷に阻まれ中断を余儀なくされる。潮の流れが変わるのを待ち続ける一行の前に、みすぼらしい橇を引いた老人が現れる。衰弱も激しく、頼るもののない極寒の地になぜたった一人でいるのか。ウォルトンは老人を救助し看護した。死の淵から戻った老人は、ウォルトンに想像を絶する過去を語りはじめた。

ホラーの、そしてSFの古典「フランケンシュタイン」です。人間が神の領域に手を伸ばすことの罪と罰いう主題は、今でも多くの作品のベースになっていて、いつか一度は読もう、と思ってました。

この作品はSFというよりもファンタジーに近いように思いました。確かに「技術を使いこなすにはその前によく考えなければならない」という哲学も読み取れるのですが、怪物の孤独というのは単に容姿の醜さから来るものだけではなくて種としてたった一人である、という想像もつかないところから来るんですよね。だから怪物は伴侶を創造するように主人公ヴィクトルに求めるのですが、それは拒否されてしまうんですね。ヴィクトルが拒否するのは技術的、科学的に問題があるからではなく単に人間側の勝手な都合で、怪物は孤独で居続けることになってしまいます。ファンタジーはバランス、二つが対になる、ということだと思いますが、男性としての怪物に対して、女性の怪物が欠けていることから、このバランスが崩れるとも読めるんじゃないかと思います。そして怪物が求めた愛情の対になるのは憎悪で、怪物はこの憎悪を象徴する存在へと変わって行くんですね。で、ファンタジーとは別の科学的な立場にいるヴィクトルの見解が面白くて「女性の怪物を創ったところで、お互いの醜さに絶望してまた自分への復讐を企てるのではないか」と恐怖します。この自分の創造物への絶対的な不信が、忠実なロボットへの不信となって後のSFへと影響して行くんですね。でもこういうヴィクトルの考え方というのは、とても科学的だと思うんですよね。ファンタジーがバランスなら、SFは状態(ステート)でしょうか。怪物が望む、僻地で伴侶と静かに暮らすというのも一つの状態なら、ヴィクトルが怯えた将来もまた一つの状態になり得るし、両者にそれぞれの立場からの感情があっても、客観的には一状態にすぎないんですよね。そういう部分がすごくSF的だなあと思いました。