「アバター(3D)」



通常版は去年観たけど、せっかくだしということで3Dの方も観てきました。奥行きの微妙なゲームでも、手ぶれの多い映画でも、峠越えのドライブでも(笑)、すぐ酔ってしまうので、その辺は前もって対策しておきました。なにしろ上映時間の長い映画だし、映画観てて気持ち悪くなるなんて嫌だしね。おかげで特に頭痛も吐き気もありませんでした。Twitterでは、翌日まで頭痛が〜とか、ひどい症状の人も見かけたので、なにかの参考になれば嬉しいです。


対策1.座席は一番後ろ
もちろん無駄にきょろきょろ眼球を動かさないため。これは3Dに限らず、私はいつも後ろの方で観てます。ちゃんと細かい所まで見えるか心配だったけど、だいじょうぶでした。ちなみにメガネの上から3Dメガネという、ちょっとお間抜けスタイル。


対策2.手前のものに集中しない
これは車酔いさんの鉄則!この映画ではそんなに手ぶれするシーンは少ないけど、かなりダイナミックに動くシークエンスが多数あるので、ドラマパート以外はできるだけ風景に集中するようにしました。


対策3.字幕は読まない
ちょうど前に座った人の頭で字幕かくれちゃったのもある。一回観てるし、お話はそんなに迷うほど複雑じゃないので、あえて読みませんでした。ここで「読まなくても理解出来ます」とか言えたらかっこ良いんだけど。字幕の場合は凝視するからけっこう目が疲れるし、なんだか字幕も飛び出してたみたい。字幕の奥行きは固定でいいんじゃないだろうか。もしくは吹き替えという手もありますね。


観た終わった後、通常版と3Dで劇的に感動が違うということはありませんでした。この映画だけかもしれないけど(観た位置も関係するのかな)、画面全体が暗くて、せっかくの美しい風景がトーンダウンしてしまっていて、アバターに関しては通常版の鮮やかさの方が私は好きですね。でも、これから3Dを演出や画面効果に取り入れた映画はもっと増えるだろうなあという期待感はすごくありました。さしあたりARをネタに仕込んだ映画とか観てみたいですね。


以下ちょっとネタバレます。






前回の感想では、「アバター」というタイトルそのものに触れてなかったので、ちょっと補完しておきます。
前に「電脳コイル」というアニメーション作品を観た時に、「存在しないものでも存在すると知覚するならそれは現実となる」という風に思い至って、その後で「じゃあ存在しない異性も居ると思えばそれは現実なの?」っていう疑問を持ったんですね。でもそれにすごく違和感があって、架空のキャラクターに感情を抱くのは否定しないけど、何か違う、その何かがずっと分かりませんでした。
この映画の中で、主人公のジェイクは自らの化身「アバター」に没入して、二つの身体を生きて行きます。最終的には寝食も忘れてもう一つの身体で生きようとするんですね。でもそれってなんだか分かるような気がするんですよ。あの没入感、映画の演出の秀逸さとしても語れると思うけど、それ以前に身体がもう錯覚しちゃってるんですよね。でもそれって違う体験を脳に反映させているだけに過ぎない。本当の身体は棺桶のような箱の中で横たわっているだけ。それでも脳が知覚するならそれはやっぱり現実なんです。
じゃあなんで、一方では違和感を感じて、一方では納得してしまったのか。それは身体がそこに存在しているかどうかということなんだと思うんですよね。やっぱり「触れる」という威力は絶大なんだなと思います。「電脳コイル」の中で、主人公のヤサコは電脳ペットのデンスケに「触れたらいいのに」と呟きます。この身体が存在するかしないかによって構築される現実の違いは、桁違いというレベルを越えて別の次元のものなんでしょう。この映画を観るという事は、真っ暗な暗闇の中にただじっと座って、もうひとつの身体が自由に大地を駆け、空を飛び回る姿を脳に追体験させているとも言えるのかもしれません。ジェイクが暗闇に横たわってもう一つの身体にリンクしているように。でも私たちは、映画が終わると席を立ち、映画館を後にします。それは生きる身体がここにあって、映画の向こう側には存在しないから。それでもいくつかの印象的なシーンがまだ頭の中で余韻を残していたりもします。「現実」として。だから、アバターを観て現実が嫌になったなんて言わないで(笑)、この現実を感じ取れる身体って本当に素晴らしいデバイスじゃないですか。ねえ。