「1984年」

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)



空中キャンプさんこと伊藤聡さんの著書、「生きる技術は名作に学べ」でも取り上げられていた作品です。最近読んだ本でも言及されてたし、いつかは読んでおきたい作品でした。


いわゆるディストピア(誰もが幸せに暮らすユートピアに対して、誰もが不幸に暮らす世界を描いた作品のこと)ものの原典とも言えるのがこの「1984年」です。この架空の1984年の世界で暮らす人々は自由や権利といった人間性がこれでもかと踏みにじられ、実体の見えない巨大な組織<党>にすべて搾取されているという、読んでてこれのどこが楽しいのか、友だちに勧める時に困ってしまうような(笑)、そんな物語でした。
そんなお話でもやっぱり読了するだけの魅力があるわけで、その一つが、この徹底した監視社会の下で行われる人間的な行動です。例えば、主人公ウィンストンはあるきっかけから職場で出会った女性に恋をするのですが、そのやりとりが本当に息詰まるんですよね。

ウィンストンもその娘も手を休めず食事をしている。(中略)低く呟くような声でウィンストンは口を開いた。どちらも顔を上げなかった。水っぽい料理をスプーンでせっせと口に運ぶ。そして口に運ぶ合間に、低い無機的な声で必要なことばをほんの少しだけ交わした。
「仕事は何時に終わる?」
「十八時三十分」
「どこで会える?」
「ヴィクトリー広場。記念碑のそば」
「テレスクリーン(双方向の監視装置)だらけだ」
「混雑していれば問題ないわ」
「合図は?」
「なしよ。わたしが人ごみに紛れるまで近寄らないこと。それからわたしを見ないこと。ただわたしのそばから離れないでちょうだい」
「時刻は?」
「十七時」
「分かった」
(著:ジョージ・オーウェル 訳:高橋和久「1984年 新訳版」)

ここで思ったのは、ある意味羨ましいということなのです。プライベートはとても大事だし、それを失うことなんて考えられないけど、その代わり私たちは障壁のない恋愛を強いられているんじゃないかと思うんですね。ある作家さん*1が、「恋愛を描く時にはなんらかの障害が必要だけど、現代ではその障害になるものがなくなりつつある」と言っていました。昔の恋愛もので描かれていた身分の差なんてもはや存在しないし、連絡とりたいと思えば、何時でもメールや電話ができる。社会的なもの、身体的なもの、時間的なもの、それらの制約から本当に自由な時代なんですよね。
でも恋愛って安定した状態よりも、困難な状態の方が俄然盛り上がったりするのは、多分ドラマだけじゃないと思うんですよ。毎日会えるよりも、遠距離の方が会った時の喜びが大きいように、この監視社会の下で極秘任務のように遂行される恋愛というものが、その困難さ故にとても輝いて見えるのはなんとも皮肉だなあと感じました。
この恋愛の一面からも読み取れるように、自由すぎるが故にたぶん今この現実は、どこか息苦しくなっているというのが見えて来るわけです。ある意味で、この1984年の全体主義的社会というのは、個人の人生の全責任を社会が持つということでもあるんですね。ところが現在ときたら、あまりにも個人に責任を還元しすぎて何かがおかしなことになっているような気がしてなりません。自己責任という振り幅の大きな言葉がそれを端的に表しているように思うのです。そりゃあ自分でやったことの責任は自分で取らないとダメですよ、大人ならね。でも自分の力ではどうしようもないこと、例えば景気の悪化による失業とか病気といったことまでにも責任が問われるのだとしたら、何かちょっと変だなと思う。それは性や個人の趣味までもを社会が監理しようとするくらい歪なことのように思います。


そしてもう一つは、言語を縮小することによって人を統制しようとするアイデアが興味深かったですね。
リンゴという実物と、言葉の「リンゴ」の対応のように、言葉と世界って1対1だと思うんですよ。例えば、ある日突然宇宙から見たことも触ったこともないものが目の前に落ちて来たら、わたしたちに「それ」を示す言葉があるでしょうか。まあ、今「それ」って書きましたけどね。その未知のものの本質を示す日本語は存在しません。そうするとこの1対1が崩れて、1.0…1対1になるわけですよね。また、突然脳の機能がイカレて喜怒哀楽以外の第五の感情が突然ふっと心に芽生えたら、やっぱりそれを示す言葉がないのです。その感情をどう表現していいか分からない。たぶん、先に世界がそこにあり、言葉はそれに対応して一つずつ当てはめられていったんじゃないかなと思います。では、今度は逆にその言葉を一つずつ削って行ったら?理屈ではそれに対応して「世界が縮小する」ことになるんじゃないでしょうか。猫とかリンゴとか具象を縮小するのはちょっと難しいとしても、愛情や正義という抽象的な概念は実体を持たないし、定義次第なんですよね。

20世紀初めの二、三十年間においてさえ、語や語句の短縮は政治言語の特徴の一つだった。そのときから指摘されていたことだが、この種の略語を使う傾向は全体主義的な国や全体主義的な組織においてきわめて顕著であった。例として「国家社会主義社(Nationalsozialist)から生まれた「ナチNazi」を始めとして、「ゲシュタポGestapo」「コミンテルンComintern」「インプレコールInprecor」「アジプロAgitprop」などが挙げられる。(中略)このように名称を省略形にすると、元の名称にまとわりついていた連想の大部分を削ぎ落とすことによって、その意味を限定し、また巧妙に変えることになると看取されたのである。
(著:ジョージ・オーウェル 訳:高橋和久「1984年 新訳版」)

これは巻末の<ニュースピーク*2の諸原理>という付録の引用ですが、この真偽は別としても、この省略形に巧妙に別の意味を与えるという行為は実は既に日本語でも頻繁に行われているんじゃないかと思うんですよね。そうすると言語で認識している世界観というのは、もしかしたら私が思っているよりももっと簡単に操作が可能なんじゃないかとか、日本語で考えてるこの思考ってかなり狭い範囲でしか考えてないんじゃないかとか、変な不安がそこはかとなく漂って来るのです。こういうの言語SFっていうらしいですけどね。そういう人間の言語と思考の関係に言及している部分が面白いなあと思いました。


この物語は、人間の現実認識の不確かさを痛烈に皮肉った作品でもあると思うのですが、その辺は「生きる技術は〜」の方でより詳しくもっと面白い文章で伊藤聡さんが書いているので、興味のある方はそちらを参照されるといいと思います。「生きる技術〜」の感想はまた後ほど。

*1:ほしのこえ」の新海誠監督だったと思う

*2:「1984年」の世界で使用される言語。