「鉄男 The Bullet Man」



「眠るように生きる」


塚本晋也監督のことは知っていたんですが、今回初めて作品を観ました。怒りを感じると身体が兵器に変形してしまう男の物語。


観た直後の印象は、女性的だなあというものでした。
メタルロックのように金属の甲高い音がリズミカルに鳴り響き、ブレを多用したスピード感のある映像で、肉体が兵器にトランスフォームするという男性的なモチーフであるにも関わらず。
怒りを発散させる方法はコントロールできても、それを感じることを抑えることはできません。暴力はどんな人の中にもある普遍的な衝動です。それを制御しようとするのはとても難しい。怒りを心から切り離して生きようとすれば、それを最初から存在していなかったかのように眠らせておく、というのがこの映画のスタンスなのだと思います。劇中、まるで誰も存在していないかのような街の風景が時々挿入されます。そこに人の気配はまったくありません。ゴーストタウンか、あるいは明け方の皆が眠りについているような静寂がそこに描かれています。穏やかに生きて行くには感情を眠らせておくこと。その中で鉄男は目覚めた存在です。決して起こしてはいけない感情に目覚め、そのことによって彼の肉体は変形します。この鉄男という存在は、穏やかな眠りを引き裂いて痛烈な生きる力そのものを表しているんだと思います。しかしここで面白いのは、彼の身体が怒りの具現として、夥しい数の弾丸を吐き出す兵器となりながらも、最終的に変形する造形はまるで女性器のようであるということ。そしてもう一つの怒りを孕むことで、最終的な崩壊を防ぎます。
このもう一つの怒り、こちらが「やつ」と呼ばれるキャラクターであり、私は前作を観ていないのでただの予測ですが、この男もまた鉄男だったのではないかと思います。この「やつ」こそが真の眠ることのない怒りを表していて、また男性性そのものでもあります。彼は自分の存在を抹消しようとしますが結局はそうしない。この部分はあまり説明がなくちょっと難しかったのですが、彼はターゲットになる事でしか自分の存在を証明することができないのではないかと思うんですね。恐らく彼は何か自分自身に証明するものを失っていて、それを怒りによって回復しようとしているのでしょう。
そうすると女性性が男性性を孕むという構図が見えて来るんですね。オープンスペースがあまり描写されないこと(狭い穴や暗い路地ばかり出てくる)も産道を意図しているようにも思います。(なんだか心理学のメタファみたいだけど)そしてこの「怒りを孕む」というモチーフが産み出すのは、現実感を失い眠ったように生きている人々の、色彩を失った夢のような世界、どことなく行き詰まっているこの現実そのものなのではないかと思います。