「時砂の王」



時砂の王 (ハヤカワ文庫JA)

時砂の王 (ハヤカワ文庫JA)



西暦248年、日本。邪馬台国の女王、卑弥呼は従者の少年を連れ人目を忍んで遠出をし一時の自由を楽しんでいた。その二人の前に物の怪が現れる。窮地に陥った二人を救ったのは「使いの王」。全身を硬い鎧で覆い巨大な刀で戦う彼は、26世紀の未来から来た人工知能の支援を受けて戦う人型人工知性体だった。

最初に本を手に取った時に裏表紙の粗筋を読んで「おお?」と思ったのは事実です。卑弥呼ヒューマノイド?歴史改変SF?それとも遠未来SF?これって面白いんだろうかと正直思ってしまいました。が、買って良かったです。

「過去はやり直せる」というけど本当にまっさらにやり直せるではないですよね。リセットボタンを押してもゲームをしている「私」は、ついさっき敵に無様にやられた事をしっかりと覚えてる、なんてことはよくあること。リトライはその主体の経験値として貯まっていき、リセット=「記憶」が消える、ということと同じではないのです。この物語の主人公オーヴィルは時代を飛び越えながら戦いだけではない様々な経験値を貯めて行く主体なのでしょう。そういう意味ではゲーム的な構造を持つお話だなあと思いました。この「何度もトライする」という不屈の意志が全体に良い緊張感で張り巡されていて、主人公達を襲う度重なる危機が予測不能で展開にぐいぐい引き込まれました。それと過去パートの描写が面白いんですよね。敵のことを古代の日本神話の妖怪のように例えたり、時代感のある生活描写も(漢字がちょっと読みづらかったけど)すごく活き活きとしてて良かったです。なんていうか、すっと目の前に浮かぶような表現なんですよね。基本的にキャラクターがお話を引っ張って行くタイプのお話なんですが、台詞の間にある地の文が簡潔な言葉を用いているのに的確というか。シンプルですごく格好いい文章でした。
もう一つは大きな愛と小さな愛の物語でもあるんですね。何かを守る、という時にそれが大きなもの、例えば国家や社会、人類といったものであるとき、愛国心とか人類愛とかを持ち出すのは別に悪いことだとは思いません。むしろその言葉には目に見えないくらいの個々の気持ちが圧縮されていて(そうであってほしい)、誰でもその気持ちに共感できるようでなくてはならないはず。でもなんていうのかな、個人が行動する時には結局その中から特定のものが選ばれているんだと思うんですね。実在する恋人や家族や大事な人への気持ちが。大きな愛を感じる瞬間というのは確かにあると思うけど、見えにくいし漠然としたつかみどころのないもので、小さな愛はとても具体的ですよね。その抽象的な愛を人工知能に担わせていると思いました。小さな愛を感じるには肉体の存在というのが大きな要因になると思うのですが、個としての肉体を持たない存在に大きな愛を語らせるとすごくしっくりくるんですよね。そして様々な「個々の」経験値を蓄えているオーヴィルは小さな愛の集積体として見ると、この二人の対比がとても面白かったです。