「闇の左手」

あの有名な「ゲド戦記」の著者のSF小説。発行はだいぶ前ですが、未だに本屋さんに並んでいるだけあって、読みごたえのある作品でした。

この作品で一番考えたのは、性別についてでした。この物語は、地球に似た環境の惑星に住む人間がみな両性具有者で、そこに主人公(男性)が地球から外交にやってくる、というものなのですが、この主人公の目を通して見た両性具有社会を鏡として明らかになる私たちの社会の有り様がとても面白いんですよね。特に、性別にまとわりついている役割や文化的、習慣的なもの、そして身体に基づく考え方って本当にたくさんあるんだということに気づいたのはとても大きいです。
最近ちょっと考えているのは、女性として見られることと、女性であることは別のものなのではないかと思うんですね。女性雑誌に限らず、男性誌でも「モテる」というキーワードはとても重要です。まあそりゃあモテた方が人生楽しいですわね。でもそのせいで「モテなきゃ」という苦労も背負い込んでしまっている。「モテる」というのは他者から特別に認識されるということ、性が注視されるということです。そしてこの「性が注視される」というのは意外とストレスフルなことでもあるんですよね。すてきな女性でいることは、い続けることはとても大変なことだっていうのは言うまでもないでしょう。部屋にいる時にださいジャージ着てあたまボッサボさでへぼ眼鏡でコンビニのお弁当食べてだらだらしてる時*1って、「モテたい」というステージから降りているはずです。誰からも注視されないところへ避難して休んでいる*2。でも、そんな時でも生理がきてお腹痛くなったりするわけです。他者の視線の対象となる性(女性として見られること)と、個体の性(女性であること)はとても強い関連はあるものの、別のものです。それは、男と女という、性を注視する側と注視される側という性別の役割があるからだと思うんですね。どちらが男でも女でもいいんですが。そしてこの注視する側と注視される側という一方的な関係は、価値の消費なのではないかなと思うんですよ。山田詠美さんの短編にこんな話があります。偶然出会った男女が一夜を供にして、女性は明け方数万円を置いて出て行く。再び出会った二人はまたセックスをして今度は男性が貰った数万円から一万円を引いた金額を残して立ち去る。そうして二人の間で、一万円ずつ消費されていく。というもの。物語の中で、女性はその一万円が何を意味しているのかを考えます。面倒な関係を精算するための手数料なのか、単にちょっとした心付けなのか、とか。その一万円で何を買っているのだろうかと。*3性別のある社会、一方的な関係性の中にある社会では、こういう消費行動によって意味付けられると思うんですね。では両性具有者の社会では、これはどうなるのか。その一つの回答がこれだと思いました。

エストラーベンと私は単に、われわれの持てるもので分かち合う価値のあるものはなんであろうと分かちあうというところまでたどりついていたのである。
「闇の左手 P296」

エストラーベンとは両性具有者で、これは私(主人公)と一緒に生命の危険を冒しながら旅をしている場面での一文です。淡々とした物語の流れはゲド戦記の作風を思わせるところがあり、全体的に特別な印象をあえて持たせないような言葉選びがストイックで素晴らしいなと感じたのですが、この引用は印象に残りました。一方が他方の価値を消費する関係性からは出てこない、価値の分配という考え方です。これこそ、個体に備わっている性(女性であること)でしかできないことなんじゃないかなあ、と思うんですね。消費する/される性の方ばかりに気持ちがいってしまうけど、こういう性の根本の部分の意味を改めて考えたのはとても良かったです。

*1:おおむね事実w

*2:この性的な注視からの回避としてボーイズラブというジャンルがあるんじゃないかな

*3:山田詠美著「YO-YO」(「マグネット」に収録)