「マルドゥック・スクランブル」

マルドゥック・スクランブル〈改訂新版〉

マルドゥック・スクランブル〈改訂新版〉

前に発行されたハヤカワJA版から大幅に改訂されたと聞いて。と、言っても久しぶりに読んだので、ほとんど新しい物語のように楽しめました。

マルドゥック市(シティ)の底辺で生きる少女娼婦のバロットは、突然現れた賭博師シェルに救われる。しかしその救済はシェルの狡猾な計画の一部だった。閉じ込められた高級車の中でバロットは殺される。ほとんど死んだも同然の彼女を、最新技術を施すことで救済したのは、ドクターイースターと、ウフコックの二人だった。自らを武装することで生き残るか、そのまま死ぬかの選択をせまられるバロット。彼女が選んだのは。

15歳の少女が自らの身体を武器化して、自身を脅かす者と戦う。この小説はライトノベル読者層向けの物語なのですが、どちらかというとハードボイルドだと思って読みました。確かにこの物語を首尾一貫通しているテーマは、バロットの選択であり、なぜ自分なのかという、思春期どストライクな自分自身への言及が、激しい変化を見せる展開と共に答えを出し、また問い続け、最終的には壮大な、それでいてどこまでも個人的で愛おしささえ覚えるような結末に帰着するというものです。彼女の物語は、成長する余白のある者の問いと答えの波間にあるものなのでしょう。
しかしこの小説は、その「なぜ自分なのか」という問いを、きっちりとハードボイルドの定形に「も」、当てはめているんですね。ハードボイルドと一言で言うことはとても難しいけど、「人がやりたがらないような仕事を引き受けることに生き甲斐を見出す性質」とでも言えば良いんですかね。これは、この小説ではバロットを守護するウフコックやドクター、そしてバロットの敵として登場するボイルドのことです。この辺は作者お得意の言葉遊びで、全員卵に関係する名前で、ハードボイルド(=固ゆで卵)は意識してるんじゃないかなと思います。そして、その「人がやりたがらないようなこと」をなぜ引き受けるのか、作中では「有用性を証明するため」と言っていますが、誰かに必要とされることを確かめるために彼らはその仕事をするんですね。誰かに必要とされること、その人が自分を必要と感じてくれること、そのことが「なぜ自分なのか」という問いの、答えの一つなんですね。成長期の少女の自己言及と同じ言葉で、いい年した大人の存在理由をも語り得る。そしてそのことが、バロットとウフコックを結びつける絆の一つでもあるのではないか、と思うのです。
そしてもう一つは、これがきちんとSFであるということ。運という曖昧なものを、統計と確率という知識に押し込み、それをハックするというものなんですが、これがすごく面白いんですよね。コンピュータも過度な演算をすると熱を発するけど、そういう熱狂と、演算のクールさの表現が見事でした。確率論とかSF的な仕込みがちょっと難しいようなところもあるんですが、その辺をばさっと割り切ってもちゃんと読めてしまうところにSFの敷居を下げるサービス心を感じました。ここってSFを書く人なら一番きっちりしたいところなんじゃないかなあ。そこをドクターの口述に任せたり、バロットの感覚で表したり、理解に苦しむ事なくすんなりと読めて良かったです。
キャラクターで良かったなあと感じたのは、バロットでもウフコックでもなく、ドクターでした。バロットの(文字通り)身近で守るウフコックとは違い、少し距離を置いてもなお、時おり父親のような優しさを見せたりする姿に、何か救いのようなものを感じたんですよね。私はあまり子どもが大変な目に遭う物語が好きじゃないので、バロットの試練は物語上不可欠なものだと分かっていても、そこにやっぱり保護者としての大人の存在があって欲しいと思ったんですね。ウフコックの存在はそういう意味では、そういうやんわりとした保護者ではないわけですから。物語にそういうものを求めるような年になったんだなあ(笑)