「ソフトウェア・オブジェクトのライフサイクル(SFマガジン2011年1月号)」

S-Fマガジン 2011年 01月号 [雑誌]

S-Fマガジン 2011年 01月号 [雑誌]

待って、違うんだ!これはコンピュータエンジニア向けの記事じゃないんだ!
…間に合ったでしょうか。こう書かないと間違えてしまいそうなんですが、読んでみて改めてタイトルを見るとまさにそのままなので、あながち間違いとも言えないのですが。まあ、テッド・チャンの作品をいくつか読んでいると分かることですが、タイトルで損してるようなところがあるんですよね。(『地獄とは神の不在なり』とか)この作品も同じように、タイトルでふるい分けられるのはもったいない、良い作品でした。

まずちょっとだけ説明を。ソフトウェア・オブジェクトというと難しく思ってしまいそうですが、この物語ではAIを表しています。なんでわざわざソフトウェア・オブジェクトにしたのかは、内容からは読めませんでしたが、単にAIだけでなくその他のソフトウェア・オブジェクトも含んでいるのかもしれません。そういうソフトウェア・オブジェクトの誕生から死まで(=ライフサイクル)の物語です。

人間の意識は、その人の物語を記述する作家である、という例えが好きです。「私」という主人公を立てて、周りの人や物との関係や、歴史的な出来事をエピソードに最適化して、感情の色を添えて綴られて行く人生の物語。感情移入とは、この物語に織り込まれることなんだと思うんですね。例えば映画を見て、感動して思わず泣いてしまうのは、そこにある物語を、自分の物語に織り込んでいるから。この感情移入という人間固有の特性は、本来、人間や動物だけを対象として来ました。しかし、その物語を綴るものが、他にも存在するとしたら。それがこの物語の中に登場するAIたちです。
以前、「電脳コイル」というアニメーションを観た時に、作中に電子ペットが登場しました。触れないし、抱き上げることもできないのに、電子ペットを飼う子どもたちは、あたかも本当の生物のように接していました。その時に、触れるかどうか、物理的に存在しているかどうかは、もはや問われなくなるだろうなと考えました。人の感受性は変わらないまま、現実の方が変わって行くだろう、と。これはその延長線上にある物語です。人間は生物だけでなく、物体にも感情移入することは明らかです。そこで問題になることは、人間の一生とソフトウェア・オブジェクトのライフサイクルは異なる、ということです。人間は平均して80年程度の寿命があるのに対し、ソフトウェア・オブジェクトはほぼ永遠に生き続けます。これには口述するプラットフォームの寿命があり、正確には永遠ではないのですが、肉体的、物理的な劣化というものが存在しない以上、寿命が尽きるということがありません。もしそういう物体を愛してしまったら、どうなるでしょう。それは自分よりも長生きするペットを飼うことに等しいんですよね。この物語で、そういう物体を愛しながら生活する登場人物たちに対して思ったのは、この人たちはかつて誰も遭遇したことのない悩みを抱えているんじゃないか、ということでした。ペットは通常、人よりも寿命が短く、死んでしまいます。だから人は、そういう死に対する経験を積んで来て、それでも確実な対処など学べていないように思います。それすら分からないのに、生き続けるペットに対しては、「いつ死ぬか」を決定しなければならないのではないかと思うんですね。その時に、「飽きたら」というのはちょっとひどい言い方だけど、正しいのかもしれません。飽きる、というのはもう感情移入はしていないということ。かつて流行した、たまごっちも、夢中で育てていたけど止めてしまった経験がある人もいると思います。解説で、訳者の大森望さんが言及していたように、「ラブプラス」の彼女は老けもしなければ死にもしません。そんな彼女たちと別れるには、どうすればいいのでしょう。ずっとゲームを再開しなければ良いはずです。でもきっと、何かしら儀式が必要になるのでは、という気がしています。死に対する儀式に近い、告別の儀式が必要になるはず。それが人間の感情に深く存在していたなら、なおさらです。そして技術は、それをもう可能にしているのですから。