「ロビン・フッド」

だいぶ昔にケビン・コスナー主演の同名映画を観ていたのですが、あれ?そういう話?というくらい、おとぎ話要素のまったくない男くさい映画でした。まあ、ラッセル・クロウリドリー・スコット監督という映画「グラディエーター」の二人なので、予想はしてましたが。

不覚にも前半寝てしまいました。あー。なんだろうな、ロビンという一人の男の立ち向かうべき運命や、愛する女性との出会いという部分はとても丁寧に描かれていたし、ラッセル・クロウの言葉少なな中にも意志の強い眼差しは、やっぱりこの映画には必要だと思うんですよね。それに差し向かうマリアン役のケイト・ブランシェットの高貴な雰囲気の顔立ちや立ち振る舞いとか、一つ一つがきちんと物語を装飾している。もちろん、二人だけじゃなく、他の俳優陣も「その時代」の空気をまとっているし、背景や小物だってちゃんとその世界を支えているんですよ。なのに、なぜか眠い。それは多分、物語そのものの構造よりもほんの少し装飾が多いせいなのかもしれないな、と思います。というか、このロビンの物語にそれ以上の強さを見出せない自分の視点がそうなんでしょうけど。物語に装飾を支える力がないと、それはただの虚構になってしまいます。その一歩手前だったんだんじゃないかなあ。
けれど、後半の戦いのシークエンスは正直にすごい、と思いました。何度か鳥肌立った。今この世界で、大軍が真っ正面から顔を合わせて戦う戦争ってほとんどないんじゃないかな、と思います。(大規模な内戦とか、調べてないだけであるのかもしれないけど)このイギリス対フランスの戦いは、真っ正面から大勢の人が剣を突き合わせ、矢を放ち戦います。すごい、と思うんですよ。真に人が戦う戦争、言ってみれば裸の戦争なんですよね。情報戦も、破壊工作も存在しない、人力がそのまま武器となる戦争。それをこの監督は、全部人で描いた。言っている意味、分かりますかね。全部、人を動員して描いたんですよね。CGというものが当たり前に映像表現に使われて、観る側もそれが当たり前のように受け取るこの時代に、人を使って描くことの意味。CGで水増しするのを別に悪い事だとは思わないし、むしろコストを考えれば経済的でもあるはず。でもCGで水増ししても、ドラマを演じるのは生身の役者であるわけですよね。そこにCG→実写という移行がある。普通は気にしないそこをもう、アクションもみんな生身でいいんじゃね?と監督が思ったかどうかはしらないけど、これは何か一周してしまったという感じがすごく最先端に思えたんですよね。今のところ、先頭(?)突っ走ってるの、この監督だけですけど(笑)観ながら思い出したのは映画「300」でした。あちらはまったく逆のアプローチで、実のところこの二つの映画の違いを見出す事ができないんですよね。この部分に何か説明をつけられたらいいな、と思います。

しかし、映画で寝てしまうとはなにごとだ。時間あればもう一回ちゃんと観たいです。