鋼の錬金術師 嘆きの丘の聖なる星

錬金術師の兄弟、エドワードとアルフォンスは亡き母を蘇らせるという禁忌を犯し「真理」によって身体を奪われた過去を持つ。彼らは「真理」と取引し失われた身体を取り戻すために必要な賢者の石を探して旅をしていた。そんな彼らの前に、犯罪者として収監されていたメルビンボイジャーが現れる。彼は兄弟の前で賢者の石がなくてはできないはずの錬成陣を描くことなしに錬金術を発動させた。

漫画の方は完結している「鋼の錬金術師」劇場版です。二度目のテレビシリーズの方は全然観てなかったのですが前作「シャンバラを往く者」とは違って特にテレビシリーズとの関連はなさそうでした。というかこれは漫画の11巻と12巻の間に起きた出来事、ということで映画館で11.5巻なるものが配布されていました。(もらえた!)なので内容的には原作の方に設定を合わせてあり、この映画の物語上の意味も本来なら原作の経過に合わせて読むべきかな、と思ったのですが、原作をちょっとうろ覚えのまま観てしまったというのもあるし、読書(読漫画?)経験として物語は完結しているんですよね。その完結した後で観る物語、という位置づけで今回の映画を観ました。
鋼の錬金術師という漫画は、円を閉じる物語だったのではないかと思います。この漫画の世界観を表現する言葉として「等価交換」という言葉があります。物質が等価である系の中で交換の手段として錬金術という力が使われているんですね。漫画ではこの系を破壊する者から守り、系を閉じた円に戻します。*1
そして今回の映画はその円の外側に橋を架ける物語だったんじゃないかと思うんですね。この映画の中では、ミロスという大きな国に挟まれて支配を余儀なくされた小国の兄と妹が登場します。彼らは錬金術という系の中で大きな力を得て国を取り戻そうとする。一方エルリック兄弟は決して彼らの復興には手を貸さないんですね。個々の気持ちにはきちんと応えているけれど、国という枠組みに関しては距離を置いている。でもそれは決して見捨てるということではなくて立ち上がった者たちが孤立しないように橋を架ける役割を担っていたんじゃないかと思います。これはちょっとはっとさせられたところで、国家干渉という繊細な問題への一つの姿勢じゃないかなと思いました。

漫画の方もすごく熱かったのですが映画の方も負けてませんでした。おおお、これぞ少年漫画!やっぱり最後は拳で殴り合いは外しませんでした。展開が漫画に近い感じで、劇場版なのにちょっとお祭り感が少なめの実直な物語だったのは良かったのですが、なんか中途半端に引っ張り出されたウィンリィがなんだか可哀想でもうちょっとどうにかならなかったのかと思います。エドワードが今回のヒロイン、ジュリアの名前を絶叫しながら追っかけて行くのを見送ってたシーンとか、それはどうなんだ。。。

*1:この世界を閉じた円とみなすとホムンクルスの印であるウロボロスは別の系という見方ができるんじゃないかと思います