プランク・ダイヴ

プランク・ダイヴ (ハヤカワ文庫SF)

プランク・ダイヴ (ハヤカワ文庫SF)

数学や情報科学などの知識を詳細に描くハードな手法と、その手法に埋没することなく科学への示唆に富んだ考察をソフトに物語に忍ばせる作家、グレッグ・イーガンの短編集です。ちなみに毎度のことながらハード面はまったく理解できませんでした。

  • クリスタルの夜

発展途上のAIに対して行う研究者たちの「神々の決断」には、倫理的な問題はないのか?というのが(たぶん)テーマの作品です。コンピューター上で独自の進化を繰り広げるAIに、進化が促進されるように意図的に手を加えるなんて、えっ普通にそうするんじゃないの?ただ黙ってみてる方がいいの?と、私は思ってしまうのですが、もしそのAIと対話が可能になったらやっぱり罪悪感のようなものは感じてしまうかも。だってもし神様が人類を使ってシミュレーションしてたら、ちょっと一言言ってやりたいっていう人はけっこう居そうな気がしますね。ここで重要なのは、相手(AI)と意思疎通ができるということではないかなと思います。AIの究極的な目標は人類と対等かそれ以上の知的存在になることですから。でもこれを読む限り対そんな存在との接触にはまだまだ人類は早そうですね。テッド・チャンの「ソフトウェアオブジェクトのライフサイクル」は、同じくコミュニケーションできるAIとの関係性を描いていますがこの作品に比べて楽観的かなと思います。

  • エキストラ

そうなのよね。脳っていうひとまとまりの器官があるのに、意識というものがどういうものかなんてまるで分からないんですよね。脳を細かく刻んで行けば意識の最小単位が見つかるかというとそうじゃない。それを身体にまで拡張して多重化させて、意識の話なのにいつの間にかイーガンお得意の量子力学っぽい感じになってて面白かったです。何度も学習を繰り返して意識が強化されていく過程を、そのまま身体の強化という意味でSMを持って来たのにものすごくえろくならないあたりすごいと思います(笑)

  • 暗黒整数

「そちら側の何者かが、境界を跳びこえたようだ」
「跳びこえた?」
「こちらにわかる範囲では、境界を横断する堀は存在しない。だが数時間前、こちら側の命題の塊(クラスター)ひとつが、そちらの公理に従いはじめた」
ぼくは唖然とした。「孤立したクラスターが?ぼくたちの側へたどり返せるような導出なしに?」

ぶほー。なんだこのライトノベルみたいな文章。いいぞもっとやれ。
お話は、数学や物理を含む系とは別の法則を持つ「あちら側」の系を発見し、その矛盾である<不備(ディフェクトというルビ付きがまたなんとも)>を緩衝地帯として、こちら側とあちら側の均衡を支える数学者の物語です。<不備>という核爆弾を保持する二つの世界をはさんで数学的冷戦と数学スパイの行き詰まる攻防戦として読んだので非常に楽しい作品でした。世界と人とが密接につながる物語はたくさんあれど、世界の方の設定をこんな風にできるのはさすがだなあ。それと、簡易OSを二週間くらいでさくさくっと作ってしまう登場人物たちのプログラミングスキルがすごくてびっくりしました。うらやましい。

  • グローリー

かつて高度な数学の知識を持ちながら惑星の歴史から消えてしまった種族の遺跡を調査するためやって来た二人の学者は、現在その星を二分する勢力へ二手に分かれて調査を開始する。
数学ってなんの役に立つんだろうね、と学生の頃に苦々しく思ってたのを思い出しました。抽象概念が具体的な価値に勝るなんて想像もできなかった。この作品に登場する現種族たちはこの学生の時の私と同じような感じなんだろうなあ。目先の利益に走るのは自然なことだと思うけど、それによって失われるもっと広く価値の認められるものがすごくもったいないんですよね。これはイーガンなりの歴史的文化遺産に対する意思表示なのかなと思って読みました。よし、今年は数学がんばるよ。

  • ワンの絨毯

ん、なんか読んだことあるような気がする、と思ったらこの作品は改変されて「ディアスポラ」に組み込まれたものだそうです。知的生命体を探索するため宇宙を旅する者たちが見つけた、ある生命の様態。友好的で地球人に近い異星人なんているわけないじゃん、と冷たく突き放した「ソラリスの陽のもとに」とはまた別の突き放し方で面白かったです。そうだよなあ、異星人が同じ次元というか、同じメタ的な階層に存在するとは限らないもんなー。

ブラックホールに吸い込まれたらどうなるのかって小学生の頃よく考えてました。なんかうどんみたくなっちゃうらしいよ、ってなんかの本で読んですごく怖かったなあ。この物語は、そのブラックホールに飛び込んだらどうなるのか、という実験を身をもって体験する人々のお話なのですが、もちろん彼らにはバックアップ(クローン)があるので、完全に死ぬことはないんですね。でも、ブラックホール内から自分の分身に実験の様子を伝えることはできません。それじゃ意味ないじゃん、と思うのですが、やっぱり小学生の頃みたいに「吸い込まれたらどうなるんだろう?」っていう単純にそれを知りたいという気持ちもなんだか分かるような気がします。本当にうどんみたくなるのかなあ。

  • 伝播

宇宙に行くには何か目的がなくちゃ駄目なんだと思います。かつて、深宇宙へと探査機<蘭の種子>を発射させるミッションを成功させた二人が、20光年も離れた星で密かに蒔いた種。なんていうか人間には、そういう果てしない夢が必要なんだろうなと思います。珍しく難しい用語が少なくてすんなりと物語に集中できた作品でした。