屍者の帝国

屍者の帝国

屍者の帝国

ヴィクター・フランケンシュタインの怪物を創造した技術が、解析機関の発達と共に一般化した19世紀末。医学生ワトソンはセワード教授の勧誘で軍事探偵の一組織<ウォルシンガム機関>の末弟として、どの解析機関の特徴も持たない新型の屍者の調査を開始する。

!!! ネタバレ !!!



読むのは楽しかったのですが、感想を書くのがとても難しいですね。

今作は二人の作家の手によって生み出されました。それぞれの作風から少し読み解いてみたいと思います。まずはプロローグを執筆した伊藤計劃さんの側から。彼の長編「虐殺器官」と「ハーモニー」は、物語の終端の風景にたどり着くものだったのではないかと思います。物語というか、人間の意識が編み上げるその人なりの物語の、その意識の語り得る範囲、意識という自動書記の性能限界。「虐殺器官」はその物語の始まりよりも前、0(ゼロ)より以前の混沌(ちなみにこの言葉はMGS4のエンディングで語られる、ある重要な人物の台詞でもあります)へと叩き込まれる物語でした。一方で「ハーモニー」はその物語の終わりよりも後、1より以後の究極の秩序の物語です。この二作品では、物語の両端の果てへと導かれて終わります。「ハーモニー」のあの読後感は、岬の端から陸地の見えない海を見ているような印象でした。そしてもう一つの長編「メタルギアソリッド ガンズ オブ ザ パトリオット」があります。こちらは伊藤さんのオリジナルではなくゲームのノベライズで内容は基本的にゲームシナリオに沿っているのですが(ゲーム的な要因で盛り込まれている中ボス戦などは省略)、実は一点だけゲームと異なる点があるんですね。それが主人公ソリッド・スネークの死を描くというものでした。ゲームではその死は明確にされていません。それはゲームの「繰り返し何度でもリスタートする」という性質上の選択だからだと思うんですね。でも伊藤さんはこの部分を明確に描いた。それを私は以前、ファンの一人として主人公の死を描くことで物語の完結を受け入れた証だと思いました。でもこうして作家の作品として並べてみると、このMGS4の物語は0と1とをつなぐ物語だったのではないかと思うんですね。MGS4は世界を覆う巨大な意志が1つに取りまとめようとする物語を、個々の小さな物語へと還元するものだった。そしてその中心を貫くのが、ソリッド・スネークの戦いの物語でした。ゼロから始まった物語が、愛国者達という1にならないように身を捧げて戦った一人の男の物語。スネークの死はこの阻止した1に届くために必要だったのではないかと思うんですね。物語の両端と、その間を満たす普遍的な物語たち。この三作は伊藤計劃という作家にしか書けないものでした。

そしてプロローグ以外の部分すべてを執筆した円城塔さんの側から。いくつかの短編と「Self-Reference Engine」しか読んでいないのでおこがましい気もしますが。伊藤さんとの対談で、物語の装飾よりも構造を重視すると発言されていて、そこが円城塔さんの作品を難しいと思わせるところなんじゃないかなという気がします。円城塔さんの構造というのは、ミステリーのトリックや論述による「目隠し」のようなものではなくて、日本語という言語をあたかも数式のように扱うところにあるのではないかと思います。だからなのか、円城塔さんの作る物語にはテーマとか哲学というようなものはあまり感じられません。そこにあるものをただ表す。数式はそうあるべき解への手順として存在していますが、円城塔さんの作品にはこれに近いものを感じます。そうあるべき「かたち」へ導くために必要な手順としての物語。グレッグ・イーガンのような哲学や洞察を含む物語とは違って、良く言えば無邪気な、悪く言えば大人げない(笑)、ただそこにある「かたち」をまじめに写し取っているのだと思うんですね。そしてその「かたち」は物理的なものではありません。数学の概念のようなとても抽象的なもの。それでも日本語の機能をぎりぎりまで使って(この部分は毎回驚く)描いている。この「かたち」こそが構造というものなのではないかと思います。

さて。伊藤さんの側からはこの作品は「物語の始まり」の物語となるのではないかと思います。それは「虐殺器官」で既に世界を覆う混沌として触れられているのですが、その始まりにたどり着くまでのスタート地点は「ハーモニー」の1にあるのではないかと思うんですね。これは伊藤さんの作品を逆回しに1から0へとたどっているのではないでしょうか。そしてその逆回転を可能にしているのが円城塔さんの構造です。「ハーモニー」の1という解から「虐殺器官」の0、そしてそれ以前の混沌への手順としての物語。それはすなわち単一のパターンから複雑なパターンを描くもの、意識を生み出すということだったのではないかと思います。解析機関、生者、言葉(あるいは意識となる何か)の3つの要素それぞれをきっちりと描き出し、最終的にはその3つを組み合わせて歯車のように回しました。その歯車が駆動して表れたものは、全てのものが可能性でしかない混沌とは真逆の、全てのものが、想像したものも実在したものも全てが在る世界だった。それは頭の中と言い換えることが出来るでしょう。実在するものも、想像も全てが存在するのは頭の中、意識の中だけです。

これが今の私の読み得たことです。ちょこちょこ小ネタが挟んであったり(「ディファレンス・エンジン」は読んどいて良かった。あともちろん「フランケンシュタイン」も)、以外にもおもしろキャラが登場したり(バーナビーの笑い声はぜったい「がはは」だと思う)、読み終わるのがもったいない作品でした。きっとまた何度も読み返していろんなことを考えるのだろうな、と思います。

伊藤計劃さん、ありがとうございました。そして円城塔さん、ありがとうございます。こんな素敵な「悪だくみ」を私は他に知らないのです。