天冥の標6 宿怨 Part3

天冥の標 6 宿怨 PART3 (ハヤカワ文庫JA)

天冥の標 6 宿怨 PART3 (ハヤカワ文庫JA)

天冥の標シリーズ6の完結編です。Part1、Part2から静かに不穏な空気に包まれていた人類と積年の恨みを晴らそうとこつこつと策略を重ねる救世群の行く末、一方で人類よりも遥かに優れた知性を持つ者たちの生存本能と崇高な使命がぶつかり合う三つ巴の争いに一気に火が点きました。これが盛り上がらないでいられるかって話ですよね。

この巻で特に印象的なのは、シリーズ標題の「天冥の標」という章があるにも関わらず、さらにこれだけ大盛り上がりの巻なのに、ここだけぽっかりと地味だということ。戦闘シーンもないし、人間関係のドラマチックな展開があるわけじゃないのに、この章がこのシリーズのタイトルを背負っているんですよね。というわけで、ちょっとこのタイトルを考え直してみたいとおもいます。

ネタバレ







まずは天冥とはなにかというと、端的にこれは物語に関わってくる人類以上の知性を持ついわゆるオーバーロード、上帝の二者であるノルルスカインとミスチフを指すんじゃないかな。ノルルスカインは自由を、ミスチフ(というかそのさらに背後に居るオムニフロラ)は統制を目指している。彼らは生存本能的にほとんど理由らしいものもなくそれを実行するんですよね。そしてもう一つ忘れてはいけない存在がミスン族。この種族には崇高な使命があるんですよ。彼女等はきちんと意図して人類と接触している。これは、ノルルスカインとミスチフが本能的なことに対して、ミスン族は意識的という風にとれるんじゃないかなとおもいます。本能と意識の対立。それと個体に宿る意識(ノルルスカイン)と、集合体としての意識(ミスン族)でもあるんですよね。これもすごくて、ノルルスカインの意識の持ち方は直列的でしかない(本流と副流には互換がないんだよねたしか)のに対して、ミスン族は並列的だということ。こういう性質の設定もすごく機能的なんですよね。この三者がきれいに対立していてこれだけでもほんとすごいなあとおもいます。この対立を天と冥というものに置き換えているんじゃないかな。ちなみにどちらが上とか下ということではないんですよね。なんたってこれは宇宙を舞台にしたSFだし、宇宙に上も下もないですからね。

そしてこの構造の影響下にあるのがこの物語の表面です。それもこの上位構造がそのまま反映されているんじゃなくて、人類の未成熟な(上帝に比べたら、ねえ)性質に沿って、ものすごくドラマチックなことになってて大変です。いやーもう、イサリがね。彼女は6の開始当初は普通の女の子だったのに、なんだかもうこの巻の最後には神格化されているような印象さえありました。これは2巻の相沢千茅の性質を受け継いでいるんじゃないかな。千茅の表層は妹のミヒルに、本質はイサリに届いたのではないかとおもいます。あーもうセアキ一族は全力をもって彼女を救ってください。とは言いつつも、セアキ一族はなんだか必ず敗北する運命でもあるような呪いがかかってるよね…。

で、タイトルにある標です。この巻の天冥の標の章では、相容れない者同士が、隣人となって少しずつ理解していくんですよね。そしてもしも最初からそうしていればこんな悲劇にはならなかったかもしれないと示唆します。このディスコミュニケーションの問題は、SFの古典的な手法で多くの作品があります。しかもこの作品は異星人だけでなく、人類同士ですらこうなんですよね。でも分かり合えない相手に対してできることは少ないです。攻め入るか、無視するか。結局はそうなってしまう事に対して、この章は、ひいてはこのシリーズは、なんとか和解かそれに近い回答を出そうとしているんじゃないかなとおもいます。お互いが住み分けながらも隣人としてそこそこやっていける世界。その仲介役になり得るのは、標として道の真ん中に立ってあちらとこちらを分けて、なおかつその間を取り持てるのは、様々なコミュニケーション手段をもってあがき続ける人類なんじゃないかなとおもいます。

さて、ここで物語的には一段落したような雰囲気なので、もう一回1読み直してみようかな。きっと最初に読んだ時とは全然別の見方になってるはず。こういう二度目の楽しみも考えながら物語を作って行くのって本当にすごいなあ。

あとまったくの余談だけど、この物語の構成の一つである「統制と自由」って、ゲーム「アサシンクリード」シリーズの構成と近いんじゃないかな。天冥は両者に対等な姿勢で、アサクリの方は自由の側から描いている感じだけど。