ゼロ・ダーク・サーティ

あらすじ
2001年の世界同時多発テロ以来、世界中でイスラム原理主義組織による犯罪が急増した。米中央情報局のマヤは、テロの首謀者ビン・ラディンを逮捕するため、疑わしい関係者を拘束しては厳しい尋問にかけ自白を強要する。しかしその努力の一方で、ビン・ラディンの居場所は依然として不明のままだった。


戦争行為のデスクワーク化。ここで描かれているのはたぶんそういうこと。本部に居ながらにしてゲームでもするかのように無人機を操作し偵察したり、監視カメラや衛星からの映像をマップに統合してリアルタイムで状況を観察したり、自供をした捕虜の映像をPCで何度も再生しては信憑性を確認したりする。もちろん、その自供を得るまでの「尋問」は人の手でしていたり、容疑者の居場所を突き止めるためには実際に動かなければならないけれど、この映画の主役のCIAの女性局員、マヤはあまり机のまわりからは離れないんですよね。パソコンが乗ってる机だけじゃなくて容疑者との面会の座に着いたりしていて、この映画のかなりの時間を彼女は机のまわりで過ごしている。これがあの世界的なテロの首謀者、ビン・ラディンを追っているという状況がなければ、彼女の仕事の様子はごく普通のオフィスワークとして見えるかもしれません。そして彼女の仕事の仕方も、ビン・ラディンを追うという高い理想ではなく、一つの業務に集中して取り組んでいる感じなんですよね。世界がどうとかあまり関係なく、ToDoリストのタスクの一つとしての仕事。それは普段私たちがこなしている感覚にとても近い気がしました。仕事の終わりに同僚とレストランで食事をしたり、一人で帰宅した後に缶ビール飲みながらテレビをぼんやり見てくつろいだり。時には上司にくってかかったり、仕事の成果が上がった時は素直に喜んだり。誰もが仕事をする上で当たり前にすること、感じることを表現として使いながら、テロ組織を追いつめていくという非日常的な大仕事を描いてるとおもいました。そしてそれがすでに現実に可能な世界でもあるんですよね。訓練も受けていない女性が銃も持たずに、テロリストを追いつめる。戦争へは地続きでありながら、暴力からは遠ざかっている。今はもうそういう世界なのだと感じました。

そしてマヤの仕事の日常に対応するのが、後半の特殊部隊による突入のシーンです。この一連のシーンのリアルな戦闘の描写はとても迫力があって、この監督は「ハート・ロッカー」でもそうなんだけど音楽などを使わずに映像だけで盛り上げていてとてもうまいんですよね。これまでマヤが行ってきた最後の仕上げ、デスクワークの成果は暴力という手段で描かれます。それまで一見、暴力とは無縁そうな仕事とは対照的に。でもそれが真実なんですよね。彼女のデスクワークからは暴力が拭き取られているけれど、その本質は暴力そのもので、この後半のシーンとは一変しているように見えて実は地続きなんですよね。でも彼女の仕事がなければ、ビン・ラディンは逮捕することができなかった。それが善か悪かなんてことはたぶんこの映画は関心を持っていないとおもいます。そのタスクを完遂するには、彼女の仕事は銃や火力ではない、情報という別の暴力を行使する必要があった。でもその暴力の本質が無くなったわけではないことは、ラストシーンのマヤの表情を見たらわかるとおもいます。彼女の涙の理由は、失った同僚へ向けてのものでもあるし、ようやく完遂した仕事からの解放でもあるし、それまで仕事上振るってきた暴力への恐れでもあるとおもうんですよね。仕事をすることと暴力との関係の中で彼女はこれまで見せなかった揺らぎを最後に始めて見せたのでしょう。