ニンジャスレイヤー ネオサイタマ炎上

ニンジャスレイヤー ネオサイタマ炎上 (1)

ニンジャスレイヤー ネオサイタマ炎上 (1)

ニンジャスレイヤー ネオサイタマ炎上 (2)

ニンジャスレイヤー ネオサイタマ炎上 (2)

ニンジャスレイヤー ネオサイタマ炎上 (3)

ニンジャスレイヤー ネオサイタマ炎上 (3)

ニンジャスレイヤー ネオサイタマ炎上 (4)

ニンジャスレイヤー ネオサイタマ炎上 (4)

あらすじ
空からは重金属の雨が降り注ぎ、荒廃した市街地と一部の裕福層が暮らす超高層ビルによって形づくられている都市、ネオサイタマ。都市の人間の大半は工場の重労働や過酷な残業を強いられる企業勤めに従事し、一部の富める者が都市を支配する希望のない時代。無力な一市民であったフジキド・ケンジはネオサイタマの闇の覇者、ラオモト・カンの計略の巻き添えを食い、妻子を喪う。フジキド自身もひん死の重傷を負ったが、その朦朧とした意識に邪悪な声が忍び込む。その声は、かつて平安時代に超人的な能力で時代の表舞台に現れ、謎のまま姿を消したニンジャだった。ナラク、と名乗るニンジャはフジキドに憑依しフジキドは現代のニンジャとなった。自らをニンジャを殺すもの、ニンジャスレイヤーと名乗り、妻子の復讐を遂げるためフジキドはラオモトを追うのだった。



以前、浅草へ観光で行ったことがあるんですが、観光案内所にパンフレットってあるじゃないですか。日本語のもあるけど、海外から来た観光客向けに英語で書いてあるパンフレットもあって、なにげなくぱらぱらと見てみたんですよね。その中に体験ツアー的なものがいくつかあって、カリグラフィー(書道)、ティーセレモニー(茶道)などなど。そしてやっぱりあったんですよ。ヨロイムシャ・コスチュームプレイ、そしてシュリケン・エクスペリエンス、と。その時も今も同じことを考えています。

なぜ、外国人はニンジャが好きなのか?

私は海外の、特にアメリカにおいて日本文化がどのように浸透したかはあまり良く知りません。彼らがニンジャに対して何を感じているのか、オリエンタルな神秘性か、表立って活躍しないステルスが面白いのか、特徴的な武器を駆使して戦う奇妙な機能性なのか、その機微を正確に読み取ることはできません。アメリカ人じゃないし。しかし日本人以上に熱狂的な感心をもって扱われている存在であることは間違いないようです。では日本人はというと彼らほどには忍者のことにはあまり感心がないように思います。忍者は日本の伝統的文化ではほとんど黙殺されている、フィクション上の存在です。どちらかというと漫画やゲームといったサブカルチャーの範囲内で扱われていることが多いですよね。しかし海外のニンジャが日本のサブカルチャーに影響を受けたことは間違いないはずで、忍者が海を渡ってニンジャとなった、その忍者とニンジャの差分に、ひいては日本とニホン(埼玉とネオサイタマw)のギャップにこの小説の面白さがあるのだと思います。
それはかつて映画「ブレードランナー」が取り込んだニホンのイメージの発展型、小説「ニューロマンサー」で描かれた濃密なニホンの拡張空間です。日本人が知っている日本の上に重ねられた、位相のずれた拡張現実ならぬ、拡張フィクション。そこにあるずれに私は奥ゆかしく微笑みながら、心の中でその隙にツッコミを入れるのです。



差分としてのフィクション
日本人特有の概念に「和」があります。これは言ってみれば人と人を滑らかに結びつける糊のようなもの。挨拶はその結びつきを円滑にする初手でもあります。この小説に登場するニンジャは必ず手始めに挨拶をします。「ドーモ」と。どんな相手であろうとアイサツを抜きにして仕掛けることは大変なシツレイに当たります。これは和の概念を上手く盛り込んでいる設定だと思います。ですがよく考えてみれば、忍者はそもそも隠密活動を遂行する者だったはずです。顔を見られた人間にわざわざ自ら名乗るなんてことは(たぶん)しないはず。このずれが奇妙な作用を起こしてニンジャスレイヤーが律儀に名乗り、そして相手もまた名乗りを上げるたびにその場違いな生真面目さにじわじわ笑いがこみ上げてくるのです。さらにこれはストーリー上、キャラクター紹介を手早く済ます方法としてもとても機能的で(むしろこの目的のためかもしれない)、この小説に登場する大勢の忍者の得意技や特徴と一致した名前が把握できるという側面もありますね。
またヤクザやカチグミといった言葉も出てきますが、こちらも大筋は感覚として理解できるものの、ヤクザがクローンだったり、カチグミが同僚とゴルフではなくモンスター狩りに興じたりと「どうしてそうなった」という隙だらけでツッコミの手が止まりません。しかしこの概念としての言葉の意味を一致させながら、その詳細を微妙に取り違えるという記述は高度な技術ですよね。ワザマエ!さらにこれらの微妙に取り違えた設定を、SF的な詰め方できちんと生かしていると思いました。特にサイバネティックなガジェットの風呂敷の広げ方は「ニューロマンサー」を彷彿とさせながらも、オリジナルの空間を紡ぎだしていて素晴らしいですね。
言葉の使い方もこの小説はユニークです。「実際安い」「オタッシャデー」「Wasshoi!(ワッショイ!)」どれも日本語としては分かるけれど、使いどころがずれているんですよね。でも最初は違和感に笑っていてもなぜかだんだんとその使い方に慣れてくるというか、本書においてその文法を一貫させているのでそうじゃないと変な感じになってくるんですよね。それと「〜めいた」という言い回しや、ニンジャが敵に打撃を加えたり、食らったりした時の「イヤーッ!」「グワーッ!」もバリエーションがなく、これだけなんですよね。本来、同じ表現を繰り返すのは日本語でも英語でも、あまりいいやり方ではないはず(似た言い方に変えたりしますよね)。でもこの作品に限ってはその愚直な繰り返しをギャグとして使っていると思います。ちなみにオーディオドラマを聞いたんですが声優さんはこの「イヤーッ!」「グワーッ!」を見事に演じきっていて感動しました。スゴイ!奇妙な言葉も作品内で数をこなすことで、差分を吸収してしまうということなのかも。それと素晴らしく技が決まった時の表現として時々出てくる「ゴウランガ!」はなんか頭の中で「豪爛華!」って感じでした。
本来ある日本の文化と、フィクションとしてのニホンの文化の差分が、時に大きく開き、時に現実の側に吸収されている作品だと思いました。こういう楽しみ方ができるのは、海外から眼差しを向けられている日本ならではですね。


印象的だったエピソードをいくつか挙げます。

  • スウィフト・フィルド・ウィズ・リグレッド・アンド・オハギ

アンコ中毒の哀れな男の現実と妄想が交差するストーリー。ニンジャスレイヤーことフジキドの非情さが男の救いとなる構成は見事。アンコを定期的に接種したくなる中毒性がうまく盛り込まれていてオハギ食べたくなりました。しかしこのタイトル、オハギ握りつぶされてるよね。

  • スワン・ソング・サング・バイ・ア・フェイテッド・クロウ

数奇な運命によってニンジャとなった女子高生ヤモトと、サイバーツジギリを生業とするシルバーカラスの一時の交差の物語。某ゲームで居合い抜きの達人に惚れ込んだので、このシルバーカラス=サンも惚れないわけがなかった。あのラストシーンはさいっこうにかっこ良かった。ベタな展開でベタな終わり方だけどこういうの、好きなんですよね。

  • デッドムーン・オン・ザ・レッドスカイ

劇場版のような豪華なカーチェイスがメインの作品。武装霊柩車のプロフェッショナル・ドライバー、デッドムーンがほとんど主演という感じ。いつもはカラテ・ファイトのシーンが多いなかで、カーチェイスの迫力やトンデモ設定で切り抜けるギャグが素晴らしい。サツバツとした展開の中に情のあるほろりとした部分も盛り込んでいて良かったです。あんまりニンジャスレイヤーは精神的にダメージ受けないけど、この作品はかなり酷い方かな。

  • パンキチ・ハイウェイ・バーンナウト

サイバー担当のナンシー=サンではない、市井のハッカーの視点からのストーリー。この作品のなかで、そこそこできるハッカーの男が「ニューロンが焼き切れてしまってね」みたいなことを言うのだけどそれならネオサイタマじゃなくてチバシティへ行け、と突っ込んだw それにしてもやっぱりハッカーはすごくリスクが高いんだなー、とか、ナンシー=サンは本当にスゴイなのだなーとか考えてて楽しかったです。

  • ワンミニット・ビフォア・ザ・タヌキ

サイバー担当ナンシー=サンが活躍するストーリー。コトダマ(サイバー)空間上での戦闘が面白かった。生体にLAN直結しててもタイピングするんだね。ラストのナンシー=サンの焦りと悟りに至った瞬間とかいつもとは違うダイナミックな展開が良かったです。