のめりこませる技術 誰が物語を操るのか

のめりこませる技術 ─誰が物語を操るのか

のめりこませる技術 ─誰が物語を操るのか

原題は「The Art of Immersion」(没入の技法)。なぜ人は映画やドラマ、小説やゲームなどのフィクションに没頭するのかを解説し、インターネットの普及によって現実に浸食してきたフィクションがどうその没入を加速させているかを説明した内容でした。


さて、物語です。本書では物語を様々に表現していますが、一番分かりやすいのは「物語とは感情を共有すること」としています。インターネットがない時代でも人はつながりを求めてきましたが、その根源は誰かと感情を共有することだったはずです。そして感情を共有するために物語が生み出されました。あの食べ物が美味しかったとか、あの花がきれいだったとか、感情をいきいきと伝えるための技術。私が物語というものを考える時、認知世界を広げるものだと考えます。一人で家にこもっていては知る事のない世界を見せてくれるもの。誰かが生み出した世界を共有させてもらうこと。それは感情を共有することと同じと言えます。
そしてそれは人間の基本的な機能なんですね。ここで一つ本書で提示された実験を紹介します。1944年に行われたこの実験は、二つの三角と一つの丸が、一辺が開いた四角の方へと移動するという、短い映像の内容を説明する、というものでした。この実験の結果被験者のほとんどは、一つの丸が二つの三角に追われて四角い箱に逃げ込む、という説明をしました。三角は怒った乱暴者で、丸はそれから逃げる弱者であるとか、四角は安全な場所を意味する家のようなものだとか。この実験は、”ただの記号”に被験者は勝手に物語を想像する、ということを実証しました。確かに私たちは、パソコンなどの調子が悪いと「機嫌が悪い」と言ってみたり、絶え間なく動き続ける機械に「お疲れさま」と感じてみたり、ただの心のないモノに対して勝手に心あるものだと想像しますよね。これは心のないモノも共感の世界に、物語に取り込みたいからなんですよね。人は本能的に物語を求めるものなんです。


これまでは誰かの物語をみんなで共有する、トップダウンで提供される物語に寄り添うかたちが一般的でした。語り手が語る物語を皆が囲んでじっと聞き入る。おそらくこのトップダウン式の伝達方法が最も効率が良かったのでしょう。でもそういう伝達をしていた昔でも、聞き手が語り手となって伝えて行く、誰かから誰かへというネットワーク型の伝達方法も存在していました。そしてインターネットという、飛び抜けて効率の良いネットワーク型伝達が登場してからの物語の伝達方法はもう言うまでもないでしょう。TwitterやLINEといったメディアで毎日、毎秒、個人の物語が誰かへと伝達されています。Facebookなどのブログサービスは「あなたの人生の物語」と題してごく普通の人の人生が共有されています。今、物語は二つのモードに別れています。プロの手による技法を駆使した物語と、個人のアマチュアの拙いけれどリアルな感情を共有する物語。本書ではマスメディアとディープメディア(CGMとも呼ばれますね)という言葉で表現しています。この物語の二つのモードの境界があいまいになりつつある、というのが本書の主張です。この中で私が特に興味を持ったのは、映画とゲームです。今回はこの二つに注目して感想を書いてみたいと思います。



映画と物語
マスメディア型の、プロの手による物語のおそらく最終形態は映画だと思います。これまで演劇、ラジオドラマ、テレビドラマと発展してきた物語の表現は、映画というかたちになりました。これらの表現型にとっての物語の特徴は、表現に関するすべてのものが作り手によって完全にコントロール可能であるということです。俳優はシナリオの通りに演じ、アドリブはあっても必ず監督の編集の下に制御されます。音楽は意図したタイミングでかかり、カメラは物語を印象づけるためだけに振り向けられます。この映画というかたちで表現される物語に没入する技術はそのまま映画の撮影技術に他なりません。そして近年、これまで平面で描かれていた映画に3Dという技術が持ち込まれました。ただ3Dに関して私にはあまり没入する感覚がないんですよね。飛び出してきて楽しい!というくらいしか思わないんだよな…。それはいいとして、これは私も知らなかったのですが3Dの場合、右と左の二台のカメラで撮影した映像が焦点を結ぶ、輻輳(ふくそう)点というものを奥か手前かどこに持ってくるか、そういうスクリーン面を調整するのだそうです。3D映画をメガネなしで見てみると赤と青の線で描かれているのは、この左右のカメラのものなんでしょう。人間が左右の目でものを立体的に見る原理とだいたい同じですね。「アバター」は事前に計算しなければならないこの輻輳点を、デジタル処理して任意のスクリーン面を実現しています。ただ本書で言及されているように3D映画としてのアバターよりも、私はその物語の方が効果的に没入させていると思うんですよね。アバターは、惑星パンドラの先住民ナヴィ族のクローンに地球人が乗り移ってナヴィ族と接触する、というシナリオです。この他の身体に乗り移ってあたかも自分の身体のように動く、アバターは化身、具現者という意味の言葉ですが、実態とは別のものに入り込むという設定が映画全体で活きているんですよね。実態とは別のものに入り込むという点では、「マトリックス」も「TRON」も、コンピュータ世界に入り込む物語です。どちらもコンピュータやゲームに没頭する時の冷たい熱狂のような雰囲気をよく表現していると思います。でも映画は映画としての枠を出ることはありません。ですが本書で解説されている「ダークナイト」はその枠を、個人のネットワークを使った伝達方法で破りました。「ダークナイト」のプロモーションの一つしてウェブを使うだけでなく、個人宛のメールや携帯電話(映画の中でも携帯電話はちょくちょく出てきますね)も駆使して”個人の生活に映画の世界を忍び込ませる"ことに成功しました。そりゃあ自分の携帯電話にジョーカーから指示がきたらびっくりしますよね。SFではおなじみの現実の上にフィクションというレイヤを重ねた代替現実を、CGMを使って実現したのです。「ダークナイト」の興行成績を見たらその効果は一目瞭然でしょう。なによりファンがどれだけ熱狂したかは容易に想像できます。「ダークナイト」はアメコミヒーローものの漫画チックな世界観を極度にリアルに描いて成功した映画です。漫画というフィクションが現実に歩み寄った作品でもあったので代替現実という手段は効果的でした。このフィクションとリアルの歩み寄りという一面の他に、マスメディアとCGMの相乗効果という面もあると思います。物語はクリエイターが語るだけではなく、ファンによっても語られる。これは本書の、ディケンズが同人文化と寄り添って執筆活動をしていたという説明からも分かるように、物語は語り手と聞き手によって完成するものなのです。



ゲームと物語
ゲームはプロのクリエイターによって作られますが、映画のように表現に関するものは完全にコントロールされません。カメラアングルもキャラクターの演技のタイミングも、クリエイターの意図通りに見せることができないのです。コントロールの半分はプレイヤーが握っています。ゲームはクリエイターとプレイヤーによって、プロとアマチュアによって語られる物語のかたちです。前掲の「ダークナイト」の例でいけばこの組み合わせは理想的ですよね。でもなぜかゲームで物語を語ることは困難を極めるのです。ゲームと物語の相克というタイトルで、本書は「メタルギア」シリーズのゲームデザイナー、小島秀夫監督のインタビューを掲載しています。ちなみに本書で小島監督を「ゲーム界のゴダール」と表してるけど、そこは「キューブリック」でしょ。まあそれはいいとして、ゲーム中にプレイヤーのコントロールから切り離してムービーを見せる手法で「メタルギア」シリーズは複雑な物語を描くことに成功していますが、一方でプレイヤーのコントロールを奪うことによってゲームを中断させ盛り上がりを損なってもいます。これは確かにその通りで、私はこのシリーズのファンだけど、物語を楽しむためにゲームを進める時と、アイテム集めやステージクリアの面白さのためにゲームをする時、と言ったようにかなり明確に分かれているんですよね。この明確に二つに分かれるものをそれぞれ定義すると、前者はクリエイターによる物語で、後者はプレイヤーによる物語です。本書では、世界的に有名なゲーム制作会社であるユービーアイソフトのゲームシナリオライターへのインタビューでこのように述べています。「ゲームが語り得る最高のストーリーはプレイヤー本人によって語られるのです。フランスの言い回しで"頭の中の映画"というのですよ(P89)」頭の中の映画と、外からの映画が衝突する、それが現在のゲームの現状です。ではこれらは回避できないのか。私がプレイしたことのあるゲームの中でこの問題にうまく立ち回っているタイトルが二つあります。一つは「風ノ旅ビト」。これは砂と風に満たされた世界に埋もれた遺跡を巡り歩くゲームです。ゲームの中に言語は一切なく、操作も飛ぶ(ボタンを押している時間や取得したアイテムによって飛距離が変わる)くらいしかありません。またステージクリアの度に短いムービーが流れますが、それに対する明確な説明もありません。しかし去年リリースされたプレイステーションのゲームの中ではかなり話題にもなり、有名な賞もいくつか取ったそうです。シンプルな操作と説明のない世界。このゲームは、キャラクターの操作やあたかも意味のありそうな遺跡のデザインによって、プレイヤーの頭の中に想像を喚起させるんですよね。冒頭の1944年の実験のとおり、人は記号にすら物語を勝手に想像する。このゲームは外側から語ることを最小限に抑え、頭の中の映画を再生することに注目しているゲームだと思います。一方で言語を排除してしまったために複雑な物語を描くことはできないんですよね。もう一つは「ヘビーレイン」というアドベンチャーです。このゲームは複数の登場人物を操作しそれぞれのエピソードが少しずつリンクするストーリーです。注目するべきはその操作で、プレイヤーはゲーム内を自由に歩き回れるけれど、表示されるタイミングでボタンを押さないと思うように進んでくれないし、一度逃したタイミングはリトライできません。このゲームはイベントのタイミングをプレイヤーではなくゲームがコントロールしています。またどんなに下手な選択をしてもゲームオーバーにならないのも特徴です。ようするに「取り返しのつかない一瞬の判断の重さ」をリアルに再現しているんですね。その取り返しのつかない判断を下すリアルな感覚によって「自分ならこうする」という物語を頭の中に構築しているのだと思います。ちなみに「ヘビーレイン」の後継作「Beyond Two Souls」が年内にもリリースされるみたいなのでとても楽しみですね。
この二つは特に成功しているけれど、他にもゲームと物語を結びつける手がかりになりそうなことがあると思います。ヒントは、プレイヤーが操作することによって意味のあるものごと、物語が頭の中に構築されること。例えばアサシンクリードは、歴史的な出来事や実在する人物をシナリオに盛り込みながらその裏で暗躍するアサシンの活躍を描いた物語ですが、あのタイムスリップしたような過去の世界を自由自在に駆け回る楽しさ、どこでも高いところに登って街全体を見渡す爽快感、あの感覚が頭の中に構築されるんですよね。だからあの世界に戻りたくなる。もう一度行ってみたくなる。あの中世のイタリアを、ローマを、イスタンブールを駆け回りたくなる。本編の物語とは別に、私はあの世界をぶらぶらと歩きながらまるで旅行をしているようだったんですよね。そのくらいゲーム世界そのものを意識させること。同じように「Zone of The Enders」(略称:ZOE)も自由度が高く、操作によって頭の中の世界を広げてくれるようなゲームでした。そしてゲーム世界を最も意識する操作は「かくれる」だと思います。隠れるという操作はキャラクターだけではなく、見つけようとする対象をも意識しなければならないから。自分から能動的に探っていく構築方法とは逆に、相手から探られることで自分の世界が広がっていく受動的な方法なんですよね。だからメタルギアをはじめとするステルスゲームはステージの細かいところまでけっこう覚えてたりします。(ただ単にやり込んでいるだけなのかも知れないけど)ゲーム"体感"とも言うべきその世界が頭の中にまるごと存在しているんですよね。
では、操作性が良ければそういう感覚を得やすいか、というとそうでもないと思います。例えばキネクトWiiリモコンといったデバイスは確かにゲームの操作性を高めたと思います。でもそれがゲーム体感につながるかというと、ちょっと微妙な感じがします。ただこれは私のような昔からゲームをしている人の場合で、今の子どもたちはまた別のデバイスからゲーム体感を得て行くことになるでしょうね。だってコントローラーだって私が子どものころからずいぶんと変わったものね。そしてそれは逆に言えば、スマートフォンや携帯電話のようなシンプルなデバイスでも新しいゲーム体感を発見できる可能性があるということなのかもしれません。ボタンや感度の良いセンサーがたくさんあればいいわけじゃない、制限された動作の組み合わせやタイミングで新しい操作性を生み出すことはかなり現実的であるように思います。また、本書にもあるようにNPC(AI制御のゲーム内のキャラクター)のようなその世界を盛り上げる要素が劇的に進化したりすれば、その世界への没入は変わってくるんじゃないかと思います。


頭の中の映画と、ゲームの中の映画。この二つが3D映画の左右のカメラが焦点を結ぶ輻輳点のように、互いに引き立て合うようなゲームがあったとしたら。私はもうそれをしないではいられないはずです。そして小島監督は、頭の中の映画と、ゲームの中の映画をうまく扱えるゲームデザイナーの一人だと思っています。