アッチェレランド

アッチェレランド (海外SFノヴェルズ)

アッチェレランド (海外SFノヴェルズ)

あらすじ

21世紀初頭。マンフレッド・マックスはアイデアを他人に無償で提供することによって富を授け、代わりに金銭以外のサービスやネットリソースを受け取る恵与経済(アガルミクス)を実践する、才気溢れる若者だ。ネットに接続されたヘッドアップ・ディスプレイからは常に大量の情報が流れ込み、拡張された大脳皮質(メタコルテックス)によって自分の分身をエージェントとしてネットに放流し統合することで、マンフレッドは常人の数倍もの速度で思考する加速された次世代の人間(ポストヒューマン)だ。マンフレッドは、次の富の授け先を探して世界を飛び回る中、奇妙な言語を用いる存在から電話を受ける。その正体は生物の神経系をデジタルに変換しネットワーク上に「アップロード」させる実験の被験体となり自意識を持った元ロブスターの神経系集合体だった。彼らは間近に迫る特異点(シンギュラリティ)から逃亡したい、その手助けをするためにマンフレッドの手を借りたい、と申し出た。初めは胡乱な存在を邪見に扱っていたマンフレッドだったが自身のアイデアとロブスターの存在が結びつき、マンフレッドはロブスターたちの「亡命」に手を貸すことになるのだった。


サイバーパンクにポストヒューマン、宇宙ものとぎっちりSFネタを詰め込みながら、3部から成るそれぞれの部で繰り広げられる恋愛もの、そしてその恋愛ものの延長上にある家族の物語。一冊に詰め込まれた情報量は膨大でまるで本というファイルに中に圧縮されたデータのようで、ページを開くと一気に解凍されて目の前にめくるめく加速していく世界が広がって行く、そんな小説でした。いやほんとすごいボリュームで読むのも大変だったんですが、一つ一つのアイデアがユニークだったし、キャラクターが魅力的で楽しかったです。


!!! すこしネタバレが含まれてます !!!


  • 第1部:離昇点(スロウ・テイクオフ) 〜 現在の延長線上にある滑走路


サイバーパンクというジャンルはそれっぽいガジェットが登場するだけではありません。ネットに接続されたヘッドアップ・ディスプレイ、インプラント手術によって拡張される能力、そしてそれらが活かされている社会、基盤があって初めて成立するジャンルです。そのすべてをこの本では今現在の世界をベースに組み立てています。本書の日本での初版は2009年、この物語の出発点である21世紀初頭と同じです。マンフレッドが使うヘッドアップ・ディスプレイはそろそろGoogle Glassとして登場しそうな気配だし、拡張大脳皮質はもう少し先になりそうだけどエージェントの代わりに情報を集めてくれるキュレーションサービスが盛り上がりつつあります。そして冒頭でマンフレッドの「空をふり仰ぎ、一羽のハトの姿を眼鏡のデジタルカメラでとらえると、自分のウェブログに貼りつけ、アムステルダムへの到着を告知した。」、という行動は今現在誰もがごく普通にすることですよね。この物語は現在から始まります。もちろんこの現在に到達するまでにコンピュータが開発され、インターネットが普及し、それが社会に浸透してきた経緯があります。じゃあここまでで、いったい何が変わったでしょうか。処理速度と記憶容量は飛躍的に増加しました。コンピュータの処理速度はほとんど日毎に上がり続け、促進されてデータ量は爆発的に増え、またそれを処理するコンピュータが加速していく、その加速の中に今があります。今だって毎日毎日ネット上に流れる情報をいちいち追いかけていることなんて無理ですよね。黎明期の頃のインターネットを私はよく知りませんが、ほんの数人の知り合いとのコミュニケーションとその間を流れるささやかな量のデータだったものが、年を経るごとにだんだんと速く大きくなっていった。タイトルのアッチェレランドは、音楽用語で「だんだんとテンポを速めていく」という意味だそうですが、それはこの情報量の増大を指し示しているんですよね。
いつの間にかネットの情報量は一人の人間が処理できる容量を超えてしまいました。それでもまだ加速は止まりません。この先も止まることはないでしょうね。ではそういう情報の海の中でヒトは溺れるだけなんでしょうか。自分自身が生み出した制御できない奔流の中で?その適応の結果がポストヒューマンと呼ばれるヒトです。一人の人間が処理できないほどの量なら、自分を増やせばいいじゃない。ネコの手も借りればいいじゃない(笑)自分の肉体が多重化すると面倒なことこの上ないですけど(住む場所がないわ)、ネットワーク上に複数の人格が存在していろいろな行動を分散できたら楽ですよね。電脳版分身の術という感じ。タツジン!意識の分散化を実現する概念としてこの本では、拡張大脳皮質(メタコルテックス)という架空の技術を導入してそれを解決しています。この辺りはちょっとよく分からなかったのですが、まあ文字通り拡張された大脳皮質ということなんでしょう。意識はまだ脳というハードウェアからは独立できないけれど、その脳の上では多重化することができるんですね。
ただ本書ではさらっと流しているのですが、分散化して再び統合するときに矛盾は起こらないのかな?というのが一つ疑問としてあります。元は自分自身なので多少の矛盾はやり過ごせる柔軟さはあると思うんですけど、コンピュータ上の普通のソフトウェアを多重化するときには必ずこの矛盾、デッドロックの問題を慎重に考慮しなければならないんですよね。つまり戻ってきたエージェント1とエージェント2が互いに食い違うようなことを言い出したときにどうするのかということ。まあ矛盾は矛盾のままとしておけるのがヒトの柔軟さなのであまり問題ではないのかな。そういえば多重化したエージェント群をどうやって自分のものだと認識するんだろうな、とふと思ったけど送り出す時に鍵でも持たせておけばいいのでしょうね。家(自分)に戻ってきた時に入れる鍵をね。
ここまでは架空の話とはいえそれほど現実と離れている気がしません。脳はそもそも様々な機能をモジュール化して連携しあっていると言われています。ここでいう意識も人格を伴う個性というよりは、検索したい、とか情報を整理したいという単純な仕事を割り振られた代理人(エージェント)という意味だと思います。でもそれを使い続けているうちに、本体の意識は外部の拡張されたエージェントに支えられるようになっていきます。本体の意識を支えるエージェント群は単なる要求を満たす集まりから徐々に意識を肩代わりする存在、副意識と呼べるようなもの。意識2.0って言う感じですかね。3章でマンフレッドはエージェントを束ねるために必要な眼鏡を盗まれてしまいます。そうするとマンフレッドはほとんど何もできません。記憶の一部もエージェントに託しているので自分が何をしようとしていたのか思い出せない。それは例えばネットから切り離されたら、という状況に近いと思います。ググらずにどれくらい生活できるか考えてみたら、その依存度にちょっとびっくりしますよね。そういう感じで彼は意識を外部化しつつあるんですね。それはゆっくりとだけど、確実に意識は脳というハードウェアから離陸しようとしているんですよね。

この物語にはもう一つ、平行して神経系をデジタル変換してネットワーク上に移植する実験の被験体となったロブスターたちが登場します。なんでロブスターなのかはわかりませんが、人間の神経系よりも単純だからなんでしょうかね。SFには昔から意識をソフトウェア化してコンピュータやネットワークに移植する「アップロード」というアイデアがあります。ロブスターたちはヒトよりも一足先にアップロードされた存在です。この時代ではまだヒトの完全なアップロードは行われていないようですが、部分的なアップロードが行われているようです。普通のインターネットテクノロジーの話をするとアップロードに対応する概念として、ダウンロードってありますよね。サーバーに上がっているデータをパソコンに落とすこと。このソフトウェア化した意識もヒトの脳に「ダウンロード」されます。そしてそのダウンロードされた意識を活性化させることを、インスタンス化(実体化)と言っているのだと思いますが、ちょっとここで考えてみてください。私の脳に「私」の意識がダウンロードされる、これは普通ですよね。でもソフトウェアというのは、ハードウェアから独立したものです。私の脳に「誰か」の意識がダウンロードされることもあり得るってことです。もうちょっと考えてみましょうか。ソフトウェアはコピーが可能です。「私」のコピーが複数の誰かにダウンロードされてインスタンス化したら。最初の例はまるで電脳版のイタコですよ(笑)複数の「私」が起動したらそりゃもう面倒ですよね。でもそういうテクノロジーの比喩から発想したアイデアを突き詰めていくのがSFの面白さでもあると思います。
さて意識のソフトウェア化と、アップロードの準備は整いました。ここまででも十分に面白いのに、ここから物語は更に予想もしない方向へと加速して行きます。

ここまでは背景となる世界を述べてきましたが、実はこの物語は実は恋愛ものでもあるんですね。マンフレッドはクリエイティブで自由な男性です。素晴らしい発想をいくつも生み出すけれど、ちょっと幼児性が抜けない典型的な天才タイプ。ところがこの人はなぜか超がつくほどのドMでw、伝統的な社会と秩序を重んじ、相手を徹底的に管理し義務に縛り付けずにはいられないパメラという女性の奴隷です。パメラは女王さまですw なんでしょうね、私はそれほどSMの文化に詳しいわけじゃないのでこの心理はうまく把握できないんですが、いろいろな意味で互いを必要とするならそれはそれでいいじゃない、と思います。面白いのはマンフレッドは恵与経済の典型として、パメラは既存の経済モデルの典型としての役割も担っているということ。背景の社会構造が二人に投影されているんですよね。それにマンフレッドは自分をミームブローカー(知伝子仲買人)と名乗るほど知伝子の繁栄には寛容なのに、自分の遺伝子情報を相手に渡すこと(つまりはセックス)はひどく嫌悪する、なんてすごく面白い性格なんですよね。これは男性ならもっと理解できるのかなあ。まあ確かに遺伝子情報の流出を防ぐようなセキュリティはかけられないですからね。自分自身の機密情報が無防備に、しかもあっという間に女性に握られるってやっぱりちょっと怖いのかも。一方パメラの相手を徹底的に管理下に置きたがる性格というのも全然理解できませんがw、逃げるものを追いたくなる気持ちは少しは分かります。それとこの物語、マンフレッドの愛称がマニーであることと、パメラが女王さま(ミストレス)であることからもわかるとおり、「月は無慈悲な夜の女王」が元ネタですね。
 

  • 第2部:変曲点(ポイント・オブ・インフレクション) 〜 超越するものからの逃亡


宇宙には太陽のような恒星はたくさんあるしその周りを回っている惑星もあるのだから、地球と同じように生命が生まれた惑星が存在する可能性は高いでしょう。じゃあそういう宇宙人が存在しているなら、なぜその証拠が今まで一つも見つからないのはなぜ?という疑問をフェルミの逆説というそうです。この疑問への解答はいろいろあるでしょうが、この部ではそれに対応する答えが示されています。
先にヒトの意識は脳という制約を脱してネットワークへアップロードすることになる、と述べましたが、そのことはヒトを肉体から脱却させるということでもあります。ソフトウェア化した意識が実行できるネットワークがあればいいので、身体は必要ありません。そうすると何が可能になるのかというと宇宙旅行が可能になります。先日、火星を往復すると宇宙線被爆量が現在規定されている量を超えてしまうという試算が出て、火星への有人飛行は難しいのではないかとニュースになりました。もし意識がソフトウェア化されてコンピュータ上で実行されるようになったら、この問題は解決できますよね。でも依然として残る問題があります。生身のヒトであれ、ソフトウェア化した意識であれ深宇宙へ進めば進むほど、現世人類との連絡が難しくなります。もし火星よりももっと遠く、別の恒星へ行こうとしたら生身ではまず無理なので、ソフトウェア化した意識で行こう、となりますよね。でも戻ってくるにはそのソフトウェア化した意識を送受信する一定の量の帯域が必要です。インターネットをつなぐためにケーブル(無線の場合もありますけど)が必要なように、地球と宇宙船をつなぐケーブルが要るってことです。さて、ソフトウェア化したヒトの意識がどのくらいの容量になるのかはわかりませんが、ヒトの知性がどれほど複雑でも無限大になるとは思えません。そうするとケーブルが運べる容量と、ヒトのサイズから行ける距離が決まりますよね。これが先のフェルミの逆説の答えです。つまり、ヒト以上の知性のサイズはとてつもなく大きいはず。そうすると宇宙に出かけて行く技術があっても、自分自身を持ち運ぶケーブルをうんと大きくしないと遠くまで行けない。もちろん、そんな超越知性なら画期的な圧縮方法や、想像もつかない転送方法があるでしょうけど、そうしてまで自分たちを運ぶ必要は本当にあるのかと疑問に思うのかもしれません。クラークの「幼年期の終わり」では地球を訪れた超越知性を上帝(overlord)と呼んでいますがつまり、容量過多(overload)な上帝(overlord)っていう難易度の高いギャグなんでしょうか。逆に言えば、ヒトという知性はさほど優れていない代わりに超越知性よりも遠くへ行けるってことでもあると思います。

この部ではそういう出会うことのない超越知性ではなくて、異種知性が登場します。それでもヒトよりも遥かに優れているんですけどね。そしてその異種知性もヒトもハマった、マトリョーシカ・ブレインという構造。惑星を解体して得られた材料を微小コンピュータに変換して、恒星をその材料で何重にも包み込んだもの。その微小コンピュータは原始レベルで演算を行うために最適化された演算素(コンピュートロニウム)で、生身のヒトは住めないけどソフトウェア化した意識、アップロードだけが住める構造、と説明されています。うーん、惑星を解体して微小コンピュータに成るくだりがちょっと分からないけどここはそれを信用しておくとして、この恒星を中心に何重にも包み込んだ球殻を持つ構造はロシアの有名な人形、マトリョーシカに倣ってマトリョーシカ・ブレインと呼ばれます。これはヒトよりも大きな知性が作り上げ、そして自らはまり込んでそこから抜け出せなくなって絶滅してしまった抜け殻のようなものらしいです。これも一つのフェルミの逆説の解答です。巨大な知性はそれに見合う演算が可能な「場」を自ら作り出すけれど、結局その「場」の重力から抜け出せなくなる、だからいまだかつてどの知性も地球に来たことがない、というもの。つまりは宇宙に放り出された超越知性の廃墟であり、一度そこにはまり込むと外部へのケーブルが細くて抜け出せないという危険な場所です。
この部の主人公アンバーはパメラという自分を管理する者から逃れ、さらに自分たちを捕食するものたちから脱出します。その中でアンバーは自分を捕まえようとする捕食者について必死に考えます。ちょうどネズミがネコの行動を予測するように。その予測が正しいかどうかは明確にはなりませんが、そういう想像力こそヒトが持ち得る能力なんですよね。この部ではアンバーはピエールという男性と恋に落ちます。ここはアンバーという女帝とピエールという従者の関係なのかな。マンフレッドとパメラのように徹底した主従関係にあるというよりも、ピエールはアンバーを守る者という位置づけだと思いました。それとパメラとマンフレッドという両親とアンバーの関係、子どもの自立の問題をフェルミの逆説の解答と共に描いていると思います。マンフレッドは父親というよりも同じ奴隷としての立場から解放を手助けしたような感じで、パメラはマンフレッドと同じようにアンバーを徹底的な管理化に置こうとするんですよね。いやほんとすごい情熱だよ。

  • 第3部:特異点(シンギュラリティ) 〜 永遠の幼年期への着陸


この本では始まりからシンギュラリティ、という言葉が登場します。ちょっとwikiを調べたら、ある基準の中でその基準が適用されない点のこと、だそうです。この物語を追って行くと登場人物たちはよく「ポストシンギュラリティ」などと言うのですが、これはヒトの基準が適用されなくなった後のこと、という意味だと思います。これまで意識がソフトウェア化し、アップロードされ、ヒトがポストヒューマンと呼ばれるようになっても、それでもまだヒトはヒトという基準の中に存在しています。というより、しようとしてきました。ここまでの物語は自らが生み出したテクノロジーに対して、これまで通りその能力をフルに使って環境に適応した人類の姿でした。マンフレッドは意識を分散させてアイデンティティーを外部化し、その娘のアンバーはアップロードされてもなお束縛する構造や管理から巧妙に抜け出す知恵を絞って。その基準が適用されない点を通過したヒトとはヒトと呼べるのでしょうか。それはヒトに認識可能なものなのでしょうか。それはつまり、超越知性というものなのではないでしょうか。ヒトがヒトである限り、超越知性には成り得ません。そのさらに格下の知性にすら劣るほどですからね。「幼年期の終わり」の上帝のような対話可能な超越知性は実は物語の背景に、にやにやと笑いながら静かに埋もれているのですがこの存在はヒトの手には負えません。本当にこの形にしたのはベストだと思う。ヒトには計り知れない意図で動く凶暴さと魅力を備えた存在ですからね。
さて、物語はヒトという種のデットエンド、永遠の幼年期へと着陸します。ヒトは結局シンギュラリティを超えず、ヒトがヒトであるために必要な「物語」を捨てることを選びませんでした。いや、もう一つの可能性としてはヒトはシンギュラリティを超えたのかもしれませんがそこにはもう物語はないのでしょう。ヒトは愚かで無邪気な子どものまま、親が居なくなった小さな家で自由気ままに生きて行きます。成長することも高い知性を獲得して行くことも確かに素晴らしいけれどその存在を思いっきり楽しむのも素敵だよ、という今までなかった一つのハッピーエンドをこの物語は提示しているのではないかと思います。


他にもこの本には、企業(法人)のソフトウェア化や、親から独立するために司法権をぶち上げるネタとかエコノミクス2.0など、政治・経済に絡むネタもあったのですが政経苦手なんですよね。フィクション上の構造だと思って読む分には楽しいんですけど、現実のものと付き合わせる知識もないのでコンピュータテクノロジーに特化して感想を書きました。ちなみに巻末の解説は高名なプログラマ小飼弾さん。この作者もプログラマだそうです。


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