空白を満たしなさい

空白を満たしなさい

空白を満たしなさい

あらすじ

缶詰工場の営業として働く30代の土屋徹生は、まだ買ったばかりのマンションで妻の千佳と幼い息子の璃久(りく)と暮らしている。仕事の先行きはあまり明るくないものの、理解のある上司に恵まれ、ときおり意見の衝突はあるものの本音から話せる同僚と共に徹生は懸命に働いた。一方、まだ物心つかない時期に父を亡くした徹生は、息子の璃久にとって善い父親になろうと子育てにも力を注いでいた。そんなある日、彼は会社の屋上から転落死する。それから3年、徹生はうたた寝の途中で見る悪夢から目覚めるように「生き返った」自分が死んだ事が信じられない徹生は誰かに殺されたと思い込むが、その意に反して妻の千佳を始め周りは徹生が自殺したと信じていた。さほど前途は明るくないものの、結婚もして子どもを授かり働き盛りの最中に自殺をする理由などまるで見つからない。徹生は自分がそのような人間ではないことを確かめるため、犯人を捜し始める。


生き返った人間が自分の死因を巡るというミステリー風の構成と、現代を生きることの困難さを高い精度で描いた風景が印象的で、面白くて一気に読み切ってしまいました。ちょっとずつ解明して行く謎もすごく後押しするんだけど、人間関係の緻密な描写もすごく面白かったです。

死は人生という光に投げかけられる影です。ぼんやりと拡散した淡い光はただそれだけでは印象を与えることはできません。写真も映画もそうなんだけど、ものごとを印象づけるのは光と影のバランスなんですよね。それは人生にも同じことが言えるはずです。なにげない日常のささやかなことを印象づけるのは死という影です。ちょっと欠けたコーヒーカップなんてなんでもないけどそれが故人の愛用していた品だとするとそのコーヒーカップが別の輪郭線を持っているように思えます。人間は喪ってから初めてそのものの大切さに気づく、なんてことは普遍的に言われていることですが、それはやっぱり影によって物事のコントラストが際立つからだと思うんですよね。
では、その死が覆ってしまったら?コントラストで際立った物事は、再びぼんやりとした淡い光の中に戻ってしまいます。この物語の主軸である「復生」は、生という明るく眩しい性質を持ちながら、その本質は影です。生き返った徹生はその明るい影という矛盾を生きることになります。そして徹生は死ぬ前に、暗い光を生きていました。光なのに暗い。明るく眩しい光なのに眩しすぎて暗く感じることってありますよね。そういう暗さに徹生は飲み込まれたのだと思います。光をたくさん求めすぎてその目を傷つけてしまった。この二つの矛盾した在り方、ねじれたものを正すのがこの物語です。この物語を読みながら私はル・グウィンゲド戦記 影との戦い」を思い出しました。あるべきものをあるべき姿にというファンタジーの構造を取りながら、その中で描かれる苦闘は現代の私たちが生きる苦しさ、生きにくさを直接的にとらえています。正直言ってこんなどろどろした物語ちょっと嫌だわーと思いましたけどw 矛盾した在り方、本質とは真逆のかたちを持ってしまうこと、このねじれた構造は、すごく難しい言葉で社会学者の大澤真幸が論じている構造に近いんじゃないかなと思います。(すごく難しいので勘違いしているかもしれない)「不可能性の時代」の中では「現実への逃避」、辛い現実から逃げるのではなく一層その現実へと暴力的に近づくという矛盾を論じていますが、徹生がしたことはそういうことだったのではないかと思うんですよね。「生からの逃避」ではなくて「生への逃避」なんじゃないかな。
物語のラストはこの矛盾が解消された瞬間に、その一瞬だけに立ち現れる光に溢れています。それは喪って初めて気がつく大切なものが、死という影のコントラストなしにそれ自身の輝きによって光るもの、普遍的なかけがえのないものの本質、なのではないかと思います。


登場人物の徹生を始めとして少し驚いたのが、他者の価値観に沿って生きる人たちです。確かに徹生の生い立ちや千佳の身の上を考えればその帰結は当然なのかもしれないけど、私はどちらかというと自分の内の身勝手な価値に従う佐伯という男性の方に近いものを感じました。まったくむかつくやつなんですけどもw けれど他者の価値観に沿うにしても、自分の価値観に従うにしても、それは価値を外か内かどちらに置くかの違いですよね。どちらがいいとか悪いとかその違いは問題ではありません。問題はそれだけに支えられているという脆弱性です。一見他者の価値観から自由に生きているように見えた佐伯は最後にはやはり足元を支えるものを失います。人間が生きている間に遭遇する様々なことにすべて対応できるたった一つの理想的な価値観なんて存在しないでしょう。人間はその時、その立場によってあれこれ苦労して、工夫してなんとかその場しのぎをしているだけです。だとしたら、その価値を並列化すれば良い、というのがこの本の主題である「分人」という概念なのかなと思います。あれだ、直列した回路の故障率と並列した回路の故障率の違いのようなものですよ。直列回路は一つがだめになると全体がダウンするけど、並列した回路は故障カ所を迂回して稼働し続けられますよね。ちなみにインターネットもそういう重要な一カ所が攻撃されてもそのカ所を迂回して全体の通信を保つ、という軍事的な理由からああいうアーキテクチャになってるそうです。


ただこの概念に少し気になる部分があるのでちょっと言及してみます。
ひとつは、分化のレベルのこと。例えば人とのコミュニケーションは、高度に社会的なものからセックスのような非言語のものまで様々ですよね。身体に近いコミュニケーションに用いる分人と、メールやチャットだけのような言語のみのほとんど脳だけあればいいようなコミュミケーションの時の分人とでは身体上のレベルが全然違う。そこで気になるのは、そういう身体に近い分人と身体そのものを切り離すことは難しいのではないかということ。少し深刻な話になりますが、例えば性的虐待を受けた人がきれいにしたい、消し去りたいのはその行為を受けた自分でもあり、その行為の対象であった身体でもあるんじゃないかな。この作品ではそういう部分には踏み込んでいなかったように思えました。(いや、千佳や佐伯のエピソードが暗に示しているのかもしれないけど)この分人という概念はすごく画期的ですごいと思うのですが、その身体のあからさまな現実感、身もふたもない説得力と比べるとちょっと物足りないな、と思いますね。

もう一つはなりすまし。分人というのは大好きな人との関係だけではなくて、嫌いな人となんとか折り合い付けて行くためのものでもあるんですよね。私は自分が疲れているかどうかを知る指標がひとつあって、昔、嫌なことを言われたり、すごく嫌いだった人が心にぽっと浮かんできてなにか傷つくようなことを言い出したりすると、ちょっと休んだ方が良いかなと思うようにしてるんですよね。でもその人とはもうたぶん10年以上会っていないんですよ。そしてこれからも会うこともないし。それに確実に分かるのは今会ったとして、この心の中に浮かんだ人とは別の人だということ。その疲れた時にわざと嫌な気持ちにさせるようなことを言う人、というのは自分自身なんですよね。自分で指人形で会話しているようなもので、人形の下にあるのは自分の一部なんです。それは分人と呼べるものではないような気がします。大好きな人との関係についてもそうですよね。自分で勝手にその人のことをいいように脚色してる。その自分のなりすましと、相手と分かち合う分人との違いを冷静に見分けることは難しいんじゃないかな、と思います。


気になる点を書きましたがこの「分人」という概念は物語が示すように現代を生きる人、様々な価値観の中で迷ったり苦しんだりすることに対して、とても誠実に慎重に考え抜かれたものだと思います。特に社会的な責任も増し、若い頃のように自由には生きられなくなって息苦しさを感じていたり、何者にもなれないことを現実として受け止めざるを得なくて虚しさを感じていたりする30代の人にはなにかしら得るものがあるんじゃないかな、と思います。私も30代で結局は子供を産むことを選択しなかった、母親にはならなかったという現実にそろそろ向き合っていかなきゃいけないのでちょっと活用してみようかな、と思ってます。


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