屍者の帝国

屍者の帝国

屍者の帝国


あらすじ
蒸気によって駆動する大型計算機、解析機関と死者の脳に命令を上書きして動作させることが可能な屍者化技術が発展した19世紀のイングランドロンドン大学医学生ジョン・ワトソンは教官であるセワード教授とヴァン・ヘルシング教授の推薦で、諜報・軍事探偵を任務とするウォルシンガム機関に身を置く。言語機能に特化したウォルシンガム機関の特別製屍者、フライデーを連れて英国領インドはボンベイへと派遣されたワトソンは禁忌とされている屍者化技術によって王国を築こうとしている人物を追跡するため、軍人で旅行家のフレデリック・バーナビーと共にアフガニスタンの奥地を目指す。



ほぼ一年前に読んだ時はわりとゆっくりと読み進めていてストーリーというよりは雰囲気を楽しんだのですが、今回改めて読み直してみたら話がすごく面白くてあっという間に読み切ってしまいました。うわ、こんなに面白かったのかこれ。この作品がきっかけで共著の円城塔さんの作品をよく読むようになったせいか、彼の作風も楽しめるようになったのが大きいのかもしれません。ただちょっと重大な展開をあっさり描いてしまったり、複雑な利害関係を丁寧に説明しすぎて少し分かりにくかったりいくつか難点があるけれど、珍しくアクションが豊富に盛り込まれていたり背景をしっかり描いていたりして、いつもの作風とは違うけど円城塔さんにしか書けない作品でした。もう二度とやらないんだろうけど(笑)こういうのも書けるのってすごい。登場人物の使い方も面白いし、謎を巡って世界を旅しながら最後には大破壊を持ってくるプロットなんてすごく映画向きだと思うんですよね。というか解析機関が動く映像が見たい。本物の解析機関の試作品はロンドンかどこかの博物館にあるけど、フィクション上のスチームパンク全開なデザインの「え、中どうなってんのw?」って思うくらいバカでかいやつがしゅーしゅー言いながらごりごり計算しているとことか誰か映像化してもらえませんかね。それと第一部のアフガニスタン行の途中で始まる屍者どうしの大合戦も読みながら画が浮かびました。個々の単純な振る舞いがあたかも全体の複雑な動作のように機能する、ってやつを視覚的に見られたらすごく楽しいと思うんですよね。なんだろう、演算が見えるというか意識できるシーンが多くてすごく面白かったです。そういうのすきなんですよね。

以下、ネタバレを含めつつの感想です。









第一部:技術的宿命へのささやかな抵抗

「可能なことはいずれ実現される」
未来は予測不可能なことばかりではありません。コンピュータの記憶容量が年々増大し処理能力が上がって行くように、ネットワークの通信量が増加するように、技術はその過程が明らかな場合があります。その流れは個人では止められません。今現在、1990年代のネットワークを体験しようとしても、仮想的には実現できると思うけど、そこに戻ることはできないんですよね。技術は自動的に改善・改良の方向へと進み、決して戻るもどることがありません。この物語に登場する屍者化という技術もそうです。死者の空になった脳にプログラムを上書きして屍者という「動く死体」を作り出す技術も作中では一般化した技術です。パソコンが普及しているように。そして技術である以上、改善・改良の過程を進むことになります。屍者というとちょっとオカルトっぽい感じですが、動作原理として設定されている部分は現代のプログラムと同じです。プログラムをネクロウェアとして実装して、インストールする。ネクロウェアは解析機関と呼ばれる蒸気機関で駆動するスーパーコンピュータを用いて作成されます。物語冒頭のネクロウェアの精度はとても人間と同等とは言えないものです。屍者は命令された単純な作業しかできないし、動作もゆっくりとしていて人間の身体の複雑な運動を真似することはできません。それでもその技術はゆるやかな改善の過程の途中にあります。それではその技術の行き着く先は。単純な命令は複雑な命令に、ゆっくりとした動作は相手の動きを予測して回避しながら動くといったような複雑に組み合わされた運動に改良されていく、というのはそれほど難しい想像ではないと思います。そうすると最終的には生きている人間と区別がつかないくらい精巧な屍者が存在することになります。そんな世界で、生と死はどんな意味を持つんでしょうね。
可能なことはいずれ実現される、というのが技術的な宿命でありもしそれを回避しようとしたらどんな方法がとれるでしょうか。人間は想像力がとても豊かですが倫理や常識という枠が意外とその想像力を阻害します。ここまでコンピュータが普及していてコンピュータが昔から電脳と呼ばれているのにも関わらず、未だに脳に直接機械を埋め込むのではなく非侵襲式の技術の方がよく研究されているのは脳の機能が明らかにされていないというよりも、脳は個人の究極のプライベートである、という認識もあるのではないかと思います。そうすると脳に直接手を加える技術の流れは衰え、脳波の計測の精度を上げる方に進んだりしますよね。技術の改善・改良の流れはとてもシンプルですが、ただ一つというわけではありません。複数ある可能性の中から流れやすい方向に流れているだけです。そうするとその最終的な実現を回避するためにはその流れの選択肢を増やしてやるしかありません。常識や道徳という大勢で共有する「気分」、倫理という人間がそうあるべき理想を描いた「物語」によって。それでもやっぱりせき止めることはできませんが。この技術の改善の過程という大きな物語に抵抗する手段としての物語。第一部はその立ちはだかる物語を押しのけて、大きな流れに乗るまでを描いているのだと思います。

一度生まれた技術とは、誰かの都合で停止させることのできないものだ。(中略)彼らの静かな試みは、敗北を運命づけられた停滞戦線の様相を呈しはじめる。文書を見出し、物語を改竄し、真理を虚偽へ埋め果てていく。彼らは技術の再発見の前に立ちはだかる。

この物語、19世紀のロンドンだったり屍者といういわゆるゾンビが登場したり、古典的なホラーやファンタジーっぽいところがあるんですがこういう技術の過程を描く点はやっぱりSFだなと思います。



第二部:複雑さを持つものの宿命

「一定以上の複雑さを持ったものに必然的に生じる現象」
技術は完璧ではありません。改善・改良の過程の上にある限りどこかに欠陥を抱えています。そしてそれが複雑であればあるほど、その欠陥が現れるのは確率的な問題だとしています。ここで言う複雑さという指標は、感覚的な物事の込み入った具合を示すのではなく、複雑系と呼ばれる分野での指標を示しているように思います。と、言いつつも私もその辺はあまり詳しくありませんが分かる範囲内でちょっと説明してみようと思います。単純なものは簡単に予測できます。横断歩道の信号のパターンは単純な青→黄→赤の繰り返しです。そんなに複雑じゃない。では天気は。天気は晴れ→曇り→雨の繰り返しというわけにはいきません。晴れ、晴れ、曇り、晴れ、雨、などそのパターンはなかなか予測できません。複雑さは予測しやすいかしにくいかの度合い、とも言えそうです。予測のしやすいものは簡単に計算できます。信号だと青→黄→赤の繰り返しの処理としてプログラムできますね。しかし天気の場合は、晴れの次は曇りの確率が何%で、雨の確率が何%、というように直線的な流れのプログラムにすることができません。コンピュータは基本的に命令を直線的に実行するので、計算しにくいというわけです。(現在の天気予報にコンピュータが欠かせないように計算できない、ということではありません) 複雑系はこういう計算しにくいパターンを扱う方法を考える科学の一分野、というように考えています。そして人間の意識というものも複雑さとしては度合いが高いものですよね。まあ予測しやすい時もありますけど、人の意識は目の前の現象だけに適応しているわけじゃないですよね。今お金を使って楽しむよりも貯蓄して将来に備える、と言った高度な判断も可能です。人の行動は、意識はなかなか予測できません。これだけコンピュータの処理能力が増大しても人の意識を模倣したソフトウェアが作成できないのはこの複雑さが高いせいじゃないかなと思います。
第二部ではその「一定の複雑さを持ったものに必然的に生じる現象」をセキュリティ・ホールとして扱っています。この設定に学術的な裏付けがあるのかどうかは分かりませんが、複雑なパターンの中には致命的な欠陥を持つものが必ず現れる、ということでしょうか。確かに複雑なものは多くのパターンを抱え込むことになります。天気で言えば、晴れ→曇り→雨というパターンもあれば、晴れ→曇り→晴れ、というパターンも考えられます。ものすごく確率は低いですが、ずっと晴れ、というパターンもあるでしょう。もし天気がずっと晴れだったら雨は永遠に降らないし、曇りにはなり得ませんよね。そして晴れだけが続く空模様を天気とは呼べません。天気の固定化は天気という概念の死とも言えます。たぶんそれがセキュリティ・ホールじゃないかなと思います。複雑であればあるほど、そのかたちを壊してしまう致命的なパターンが出現する率が高くなる、ということなのではないかなと思います。
第二部ではそのセキュリティ・ホールを使った屍者の暴走という技術の問題点を描いていると思います。そしてこれは第一部で提示された、フランケンシュタイン三原則という、ロボット三原則を屍者に置き換えたものから逸脱します。屍者は生者に危害をくわえてはならない、と言われても屍者を扱うのは人間です。これは人間が守らなければならない三原則として提唱されていますが、ここで屍者を暴走させているのは人間ではありません。そういう場合にこの三原則は効力を持つのかという問題もあります。屍者からすれば暴走しているわけではないんですよね。ただ命令の通りに動いているだけです。技術は人間の安全や倫理とは別のところにある、本来異質なものだという視点。そしてその過ぎたものをあまりに無頓着に使用してしまう素朴な愚かさが描かれていると思います。

技術は使用者の才幹を映す鏡だ。

北里化学での大立ち回りがすごく面白かったです。バーナビーさん大活躍。というか、ワトソンとバーナビーは本当に仲が悪いんですね(笑)



第三部:技術を促進する物語

前掲の「一定以上の複雑さを持つもの」はそれ自体で勝手に存在しているわけではありません。天気は地面や海水の温度が上昇したり高地や低地だったり季節の移り変わりなど、様々なものに影響されます。外側の要因が天気を変え、そして天気は植物の発育を助けたり河川に流れる水量を変えたりと外側の事象を変化させます。複雑系のひとつであるカオス力学の有名な比喩、バタフライ効果は少し大げさだけど地球上の生態系にはこういう循環が存在しますよね。そしてこの第三部では、解析機関と人間、そして死者を屍者に変えるものとして作中ではXとしていますが、この3つの要素で循環系を作り出そうとします。さてこのXですが、第一部で既にネクロウェアというプログラムとして存在していることが明記されています。プログラムとは命令の集まりです。命令は動け、とか走れ、など意思をコード化、つまり言葉にしたものです。プログラムは複数の命令を並べて一定の複雑な動作をさせるための言葉の集まりなんですよね。屍者は言葉によって駆動している、というわけです。第一部でも少しだけ触れていますが、ゴーレムは額に<真理>という字を書かれることで動き、<真理>の単語から一文字消された<死>によって停止します。屍者もゴーレムのようなものだと言えます。解析機関と人、そして言葉。人は解析機関を作り出し、解析機関はネクロウェアを作り出し、ネクロウェアは言葉として屍者を動かします。ここで循環するのは人間にとっての意識、機械にはソフトウェアということなんですよね。人とモノとの境界を越えて意識が循環する。この循環は調和のとれた美しいかたちであると同時に人の手には負えない強力な魔法陣でもあります。人間には現実と虚構の区別がつきますが、ソフトウェアに文章を読ませたとしてリアルかフィクションかを判断することはとても難しいんですよね。現実も虚構もソフトウェアという機械の意識にとってはどちらも同じ情報でしかないから。解析機関は計算を物質化するという不具合を抱えています。まあこんなことは普通のコンピュータでは起こりませんがそんな解析機関と、森羅万象だけでなく想像したものも含む「言葉」が結びついたら。

わたしたちがエデンにあった頃話した言葉、全ての動物たちに名前をつけた言葉がわたしたちの魂の言葉なのだと。更にはバベルの前に魂だけで交流していた頃の純粋言語が存在すると。その言葉を理解する事により、わたしたちという生命は種さえも超えて真に交流することが可能となり、蘇りの技をもって時間を止め、死も喪失もこの世から吹き去られるのだと。

そしてこの結合こそが、この物語を導くザ・ワンの目的でもありました。彼の目的はあらかじめ喪われた花嫁を取り戻すこと。ここまでロジカルな作風でなんて感傷的でロマンチックなんだろうなと思います。私は科学者の研究の動機には個人的な理由がある物語がすごく好きなんですがこの作品はまさにこれですよね。その代わりに花嫁だけでなくありとあらゆる言葉で言い尽くされた物事が復活してしまいます。それをくい止めたのがもう一つの「言葉」でした。それは純粋言語とは反対のもの。完全な疎通を阻む混沌の言葉です。その言葉によって魔法陣は力を失います。<真理>の単語から一文字消されたゴーレムが砂へ戻るように、物語もまた白紙へと戻ります。



かたちがとても綺麗な物語でした。伊藤計劃さんの視覚的な装飾の文体とは違うけど視覚的な構造がゆっくりと姿を現していく展開はとてもスリリングで楽しかったです。それに文章がすごく巧みで現代の小説にしては古風というかちょっと難しい言い回しが多いけど、少ない字数で的確に表現する技術が素晴らしいんですよね。専門外の人には分かりにくいかもしれないけど、無駄のないプログラムを読むような感動がありました。

感想を書こうと思ったのですが下手な解説になりました。また読み直すこともあると思うけどその時に今ほど理解できるかちょっと自信がないです。でも改めてすごいなって思うんですよ。プロローグの屍者化やネクロウェア、解析機関のわずかな記述から、ちょこ「ディファレンス・エンジン」から参照して(フランスの解析機関、グラン・ナポレオンが不調だと言う件はこの作品からですね)ここまで広げてさらにちゃんと円城塔さんらしい、言葉や意識に対する視点が盛り込まれていて。その視点は「ハーモニー」への批評でもあると思います。技術の過程の最果て、進化のデッドエンドにたどり着いた「ハーモニー」の世界と決別し、混沌としていて愚かで優しい世界への帰還の物語だったんじゃないかな。「最後の挨拶」としてこれ以上の言葉はありませんね。