エリジウム

あらすじ
2154年。人口増加とそれに伴う汚染拡大のため、人類はスペースコロニーエリジウム」を建造する。しかしスペースコロニーのキャパシティには限界があり、結果裕福な人々がエリジウムに移住し残りの貧しい人々は地球に取り残された。温暖な気候に豊富な食料、ゆとりのある住まい、あらゆる疾病、怪我を簡単に治療できる装置が完備されたエリジウムはまさに楽園だった。高度な人工知能は環境の維持だけでなく政治統制も実現し、エリジウムの住人は将来になんの不安を感じることなく健やかに暮らしていた。一方、地球に取り残された人々は昼間でも目視できる上空のエリジウムを見上げながら、いつかあの楽園へとたどり着くことを夢見て地獄のような日々を送っていた。狭く老朽化した住居に住み、食料は慢性的に不足し、十分な医療が行き届かない病院は常に重症・軽症を問わずいっぱいだった。ほとんどの成人が失業しかろうじて就労している者も過酷な労働環境を強いられた。そんな地球の一人の労働者マックスはある日作業中の事故で致命的な重症に陥ってしまう。彼はなんとしてもエリジウムに侵入しすべての病を治療する装置の力を借りなければならない。彼は高額な報酬と引き換えにエリジウムへと密航を請け負う、スパイダーに接触するのだった。



全人類の命運のため、あるいは地球の存亡のため。まあなんでもいいですが、個人の枠を超えてより大きなもののために自己を犠牲にする物語というものがあります。この映画もそういうものの一つだと思うんですが、それはあくまで結果、というところがすごく良かったんですよね。この映画の主人公マックスは何度も「死にたくない」と言います。別にこの人、すごく自己中心的というわけでもなくて、普通に友だちや仲間のことを思いやったりするごくごく普通の人なんですが、自分の命に危険が迫っている状況で自分のことだけ考えるのはすごく当たり前のことだと思います。でもちょっとこの人が非凡なのは死にたくない欲求がすごく大きくて、ただでさえ何も持っていないのにもうすべてのものを絞り出して代価にしてしまう、その生存への貪欲さなんですよね。死にたくないから死にかけている身体すら差し出すなんて、ちょっと常識を逸している。でもなにか自分の手には追えない大きなものに対して自己犠牲を払うよりも、自分の命のために自分を犠牲にするという方がなんだか身近な感じがします。もちろんそれで救えるのは自分一人の命だけですが。
持たない者が持ち得ないものに対して過剰な代価を支払う、という物語はどこか悲劇的なヒーローを感じさせます。例えば「ボーン・レガシー」では特殊部隊隊員を希望したけれど条件を満たせなかった主人公は、薬物投与や人体実験に自分を差し出す代わりにその望みを叶えます。そのままでは叶わない高い望みを叶えることと引き換えに、ある一線を越えてしまう人間の強欲にはタフさと同時にそうせざるを得なかった哀しさがあります。(ちなみにもともと才能があって普通に特殊部隊隊員だったボーンシリーズ3部作の主演は、この映画の主役のマット・デイモン
生身の身体に食い込む無機的なケーブルやLEDやディスプレイ、身体を強化するというよりも拘束しているように見える金属の外部骨格。マックスの「生きたい」という高望みの代償に与えられたものたちは、そういう悲哀がどことなく現れているように思いました。


序盤は、ちょっと「タイム」という、時間が貨幣の代わりになった世界でやはり貧困層(一日を生き延びる時間しか持たない)と裕福層(何十年という単位で時間を有している)を描いた映画に似ているかなあと思ったのですが、途中から急に物語が動き出して面白かったです。特に貧困層のマックスと裕福層のデラコート長官(ジョデイ・フォスター)の利害が交差する展開は見事でした。都合良すぎるところもあるし、ベタで予想できてしまう流れなんだけど、なんだかポンポンと勢いに乗って事態が動いてて気持ちいいんですよね。予想してからそういうシーンに突入するまでがけっこう短いし、分かりやすい伏線の貼り方もベタだけど好きでした。ただこういうベタな映画こそあまり有名じゃない俳優さんの方がいいのかもしれないな、とも思うんですよね。うん、マット・デイモンはアクションも演技もすごく上手いし申し分ないんだけどこの主人公を演じるには少しあっさりしすぎたかな。でも終盤のアクションはかなり良かったです。ああいう銃を構えたり、ファイティングポーズは本当に様になるなあ。


あと、カメラにやたらフレアが映り込んでいてこんながちなアクション映画なのに全体的にふわっとしたシーンが多かったのが面白かったです。回想シーンだけじゃなくてけっこう普通のシーンにもきらっと入っちゃってるんだよね。


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