ユービック

あらすじ
1992年。超能力者が世間に広く受け入れられ、併せて超能力者の能力を無効にする反能力者という存在も認知されている。能力を持たない普通の人々は、テレパス(読心能力者)やプレコグ(予知能力者)によってプライバシーが侵害されるこを恐れており、そのような要望に応えるため反能力者たちを派遣する良識機関なるものが設立されていた。また死んだ人間は脳に大きな損傷がない限り半死者として冷凍保存されながら、時折生者と会話をすることが可能となっていた。
良識機関の業務を請け負うグレン・ランシターは、世界的に有名なテレパスであメリポーニが突如失踪したことを知る。メリポーニはホリス異能プロダクションに所属する超能力者だ。背後に経営者のホリスの策謀を直感したランシターは、共同経営者であり半死者である妻のエラに相談する。しかしエラに残された時間は少なく、弱まった脳波をジョリーという得体の知れない少年に乗っ取られる始末。今後の方策を定められないまま、ランシターは月面で活動しているスタントン・ミックの代理から急遽、大勢の反能力者を月面に送って欲しいと依頼を受ける。具体的な内容が伏せられた依頼にランシターは不審なものを感じるものの、能力者の力場を測定する技師ジョー・チップを始め、プレコグが予知する時間軸そのものを消失させることができるパット、その他の反能力者たちを引き連れ月面へと赴いた。しかしそこで彼らは何者かの襲撃を受けて多くのメンバーが喪われる。同時に存在するあらゆるものが退化していく時間退行現象が始まった。その奇妙な世界に気がついたジョー・チップはどこからともなく現れるランシターからのメッセージを手がかりに、世界の謎に立ち向かう。

現実と虚構の境界の曖昧さ、その揺らぎを題材とすることが得意な作家、P・K・ディックの作品です。本作は1969年に発表された作品とのことで、作品中の1992年は20年以上も未来を想定している、ということになります。過去に描かれたSFがどのくらい現在に近づいていたか、どのくらい未来予知ができていたか、という尺度で作品を解釈するのは楽しいですが、ディックの作品ではそれは意味がないように思います。まあ、プレコグ(予知能力者)とか出てくるけど予知の内容がどうこうというよりも、その存在が現実にどういう意味を持つのかという方に重点が置かれているんですよね。(ちなみに予知の内容が作品に関わってくるのは「マイノリティ・リポート」)では、この作品がまったくの過去の想像の産物だけだった、というと全然そんなことはありませんでした。むしろ奇妙なリアリティがあって後半はかなり没頭して読みました。そういうわけで、リアルを感じたポイントなどを挙げておきます。


  • 衰退するモノ、抽象化するモノ


ユビキタス」って言葉知ってます?5年くらい前かなあ、「どこでもコンピュータが使えるという概念」としてちょっと話題になりましたがあっという間に「クラウド」という言葉に置き換わってしまいました。両者の定義は厳密に言えば違いますが、コンピュータリソースが偏在する(ユビキタス、Ubiquitous:偏在している、同時に存在する)という点では近いかなと思います。まあ「クラウド」も今はわりと定着している感じですが、最初はほんと雲をつかむような話でしたねえ。スマートフォンで撮った写真、片手間に取ったメモ、スケジュールやTODOリスト、それらを活用するためのアプリ、そういうものがあたかも頭上の雲から降り注ぐように手元のスマートフォンやパソコンに届きます。かつてあった紙の写真を収めたアルバムや手帳、メモ用紙やアドレス帳は姿を消して、デジタルデータに変換されています。でも「アルバム」や「アドレス帳」、「メモ」という概念はアナログもデジタルも変わらないですよね。紙でもスマホでもアルバムは「アルバム」です。ところで紙のアルバムってすごくかさばりますよね。昔はそれしかなかったけど、今はとっておきの写真以外はスマホやストレージにデータとして保存している人の方が多いんじゃないかなと思います。具体的な質量を持つものから、「アルバム」というデータへとどんどん移行している。もちろんデータもアルバムよりかは小さいけどそれなりに物理的なHDDやストレージが必要です。でも手元にモノとしては存在しません。データはプログラムを通して解釈され「アルバム」となります。この「モノがモノであるために必要な外部からの影響力」。これがこの作品では「ユービック」というスプレー式の缶に入った薬剤です。作品中では、モノは原因がよく分からないままどんどん衰退していきます。最新のカーナビがついたAT車が、カーナビなしのMT車になり、あげくにパワーステアリングもなくウィンカーもない(昔は手信号だったみたいです)車になっていくように。このモノの衰退の過程、自分が実感として持っている「車」という概念から実体がどんどん遠ざかって行く感覚は、紙という実体から「アルバム」という概念に向かってどんどん抽象化していくモノに呼応するんですよね。それが「車」や「アルバム」だということは分かるけれど、それは私の知ってるモノじゃない。そのもやもやとした感じ、いつか消えてしまうんじゃないかという不安が、とてもリアルに感じました。40年近くも前の作品なのにすごいなあ。
ディックは現実を取り巻く物の中に、概念というレイヤーを通してモノを見ていたのではないかと思います。例えば、同作者の短編「くずれてしまえ」は、人工物をなんでもコピーできる生命体に依存しきった人類を描いた作品ですが、そもそもモノをコピーするというデジタルな発想を持っているんですよね。そこにある物の中にそれが意味をなすために必要な概念がある、という視点があるんじゃないかなと思います。今ならさしずめ3Dプリンタというところですね。


  • 精巧につくられたハリボテの現実


90年代のゲームはストーリーに見合う映像に追いつこうと必死でした。まだ人間の想像力の方が解像度が高かった時代です。この時代のゲームは華麗なCGが売りでした。とにかく壮大な世界、誰も見たことのない世界を画面の中に出現させること。それは実現され、私を初めとする当時のゲーム好きな人たちはその世界観に熱狂したものです。しかし当時のゲーム機はその華麗なCGを表現させるだけで精一杯でした。まるでその場の空気までもを再現したかのようなゲームの世界は、限られた場所にしか進むことができず、その奥が見たい!別の角度で見たい!と思っても視点は固定されていました。精巧なゲームの世界でずいぶんと歯がゆい不自由を味わったんですよね。でもそういう世界にも慣れるもので、いつしかその不自由さもちょっとした段差すら踏み越えられないもどかしさも、なんだか当たり前のように感じていました。今ではもうそういうことも少なくなりましたが、未だにその感覚、ゲーム世界の中の制約はコントローラーを握る度に無意識に感じていることだと思います。
この作品は途中からディック特有の現実と虚構が曖昧となった世界に突入します。うーん、ここまではネタバレにはならないよね。いつもの作風です。この曖昧となった世界を読んでいて感じたのは、そういうゲームの世界の制約でした。本物と見間違えるくらいよくできた虚構の世界。その中では自分が存在する場所以外は存在していません。ああこれ、ゲームそのままだ。ゲームは自分が見ている風景以外はモデリングされないもの。(まあ最近のゲームはかなり広範囲に先行してロードしてあると思いますが)例えばFFなら7や8、クーロンズゲートなどが思い浮かびました。(ちなみにFF7の主人公は「クラウド」、彼は自分自身が見ている現実を消失する、というどことなくディック的なものを感じますね)私はあまり読まないけど、この作品の現実をオンラインとするなら、ネットワークゲームに閉じ込められたライトノベル風のリアルを感じる人も居るのではないでしょうか。ゲームやラノベといったフィクションに「リアル」という言葉もなんだか変だけど。しかし、40年以上も前の作品を読んで、まさかこんなゲームと同じリアルを感じるとは思いませんでした。


と、まあこんな感じです。それにしてもディックが現在に生きていたら、ゲームデザイナーの飯野賢治さんのような時代を先取りしたゲームを作っていたんじゃないかなと思います。いや、やっぱりよく分からない作品ばかりで10年後くらいに評価される感じになっちゃうのかな。



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