グッドラック 戦闘妖精・雪風

グッドラック―戦闘妖精・雪風 (ハヤカワ文庫JA)

グッドラック―戦闘妖精・雪風 (ハヤカワ文庫JA)



自律とは世界の中の自分の立ち位置を認識すること。


いやー生きてるとは思わなかったな。前作「戦闘妖精・雪風(改)」のラストであんなに壮絶にふられた挙げ句に、生命の危機に瀕した深井大尉(昇進した)でしたが、まあ身体はどうにかなってもあれだけの大ダメージを受けて精神的に生きていくのは難しいんじゃないかと思っていたら、続編である今作にしっかり登場していて驚きました。もう絶対死んだと思ったわ。


前作までは空飛ぶスパコン(この表現もどうかと思うけど)雪風さんが自律するまでを、そのパイロットやまわりの人間たちの側から追いかけた物語でした。高度に発達した機械は妖精と見分けがつかない、という感じ。まあ雪風さんは可憐な妖精というよりも猛禽類っぽい、肉食系女子という感じですが。で、今作はそのパイロットである深井零大尉の、人間の側の自律を描いていると思います。


雪風に乗れないと精神的に参ってしまったり、人間や機械問わず相手のことを考えない未熟さを抱えていたりと、前作からなんとなくダメ人間っぷりを振りまいていた深井大尉ですが、ようやく周りのことを意識し始めます。いやかっこいいんですよ彼は。雪風に乗って戦っている時はね。それにその未熟さ他者への無関心は、その職務が要求する技能と引き換えなのだろうし。
そんな彼が次第に自分自身の戦いの目的を確認し、世界を意識する過程の緻密な構成は、P・K・ディックの小説のように現実と虚構との曖昧さを提示しながら思いっきり別の方向へ振り切ります。「確認する術がないなら、そんなのどっちでもいい」と。うむむ…すごい。それは成熟した人間には既に自律してしまった人間には難しいことだと思うんですよね。自律した人間は彼・彼女が行動する世界というものを定義しているはずです。この世界が私個人の妄想だというのは、今さらちょっと対応するのは難しいな。でも深井大尉はずっと戦闘という生命の危険に晒される現実を経験してきた。言葉ではない、実践的なものの見方で世界を捕らえようとするならやっぱり最終的には「どっちでもいい」のだろうと思います。束の間地球に戻った彼が感じたことは、それが現実かどうかはどうでもいいし、そして自分がその一員であるという意識ではなかった。むしろ彼は自分自身をその外部の者だと認識したんですね。


実はこの感想を書いている時点でもう次の続編を読み終わっているのですが、この物語は最初から外側に置かれていると思います。地球の外側のフェアリイ星、人間の外側の機械たち、その間に深井零をはじめとする人間たちが置かれています。そしてそれらが「人間とはなにか」をソリッドに浮き彫りにしているんですね。零は何度も自分は人間だ、と言います。そう主張するということは、自分が人間だとあらかじめ知っていなくてはならないですよね。それはそのまま、人間はなにかという問いに答えることでもある。
深井零は未熟な人間ですが、決して自己中心的な人間ではありません。他人のことには無関心なだけで、他人を操ろうとしているわけではない。彼が操ろうとしているのは雪風だけです。そしてその雪風は一足先に自律してしまった。彼は唯一の自己中心を失いました。自分が何者かということに彼は答えられない。そのためには彼は自分の立ち位置から確認する必要があった。そのために世界がどうなっているかを知る必要があったということだと思います。

厳密に「自分が何者か」という問いに答えることは人間にはできないと思います。それはその人自身が関わりあう多数の人間の間にしか、自己というものが存在しないから。零もまた、過去の自分にそっくりな部下や、長く付き合いのある上司、客観的な視点を持つ担当医、そして一度は突き放された雪風という存在を通してしか自分を確認することができません。しかし実践的な彼はその体感、感覚こそが事実だと受け止めます。「確認する術があるなら、それでいい」ということ。世界を認識し、その中の立ち位置を意識する。この物語でのその方法はとてもユニークだけどこの普遍的な主題が揺らぐことなく描かれていて本当に面白かったです。


難しそうな思弁的な記述の多い物語なんだけど、実は言っていることはすごくシンプルなんですよね。しかも回りくどいとは一切感じさせない、整然とした叙述の仕方が最高にかっこいいです。今作はあまり前作のような機動のシーンは少ないんですが、ラストシーンの飛翔は、零と雪風、二つの自律した意識の完全なコネクションの確立を象徴するものだったのだろうと思います。



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