「Cyborg Philosophy」



サブタイトルの「攻殻機動隊」「スカイ・クロラ」に釣られました。


サイボーグというか、SFの中でも「ハード・ソフト問わずがっつり生身の人間に食い込むテクノロジー」という設定が好きなのですが、この本を読んでそういう自分の興味を省みることが出来たと思います。サイボーグを「モノと人との間が曖昧になった存在」という論旨で考察していて、とても興味深かったですね。


序章と2章では現状の技術と可能性の説明でした。もうこんなところまで来ているですね。既に実現している技術として、AR(拡張現実)のようなユビキタス技術が興味深かったです。こういうテクノロジーを考える時に、よく外部化という言葉で考えてみる*1のですが、これは認識系を外部化しているということになるのかな、と思います。そして外部化=管理可能であることは、認識系の制御を可能にするって言う事なんでしょう。この現象が引き起こすのは、見たくないものはもっと見なくなるということ、「現実」が均一化していくということだと思いました。誤解や無理解は減るかもしれないけど、新たに何かを発見するという機会が失われて、現実はもしかしたらもっと息苦しくなってしまうのかもしれません。
これから発展する可能性のあるテクノロジーの中でも、BMI(Brain-Machine Interface)が面白かったです。この技術が人間にも応用されるようになると、複数の身体を持つようになるんですね。うーん、一つでも持て余してるのに(笑)逆に考えると、複数の意識を持つ身体というのも考えられます。これまで意識と身体が一対一の関係だったものが、多対多になるんですね。そうなった時、「自分」という線引きが拡張された時、どうなっていくのか。とりあえず人間関係では悩まないでしょうね。全体(多)としての「大きな意識」*2というものが存在しそうな気がします。


3章では攻殻機動隊についてでしたが、分析はとても読みがいがありました。攻殻は娯楽としてとても面白い上に、
こういう批評も楽しいんですよね。私見ですが、この物語の主人公が女性なのは、単に男性受けを狙ってるだけではないと思うんですね。*3女性は身体の構造上、男性より身体の方に意識が向いているんです。映画版の草薙素子は電脳内にノイズが多い事を指摘されて「今、生理中なの」と返すシーンがあるんですが、あれはすごく納得出来るんですよ。そうやって意識というリソースが男性に比べて身体の方に回っているような存在なんですね。男性より一つ多く処理が走っている状態と言い換えてもいいんですが、そんな存在が身体から自由になる=サイボーグ化するとどうなるのか。もう生理痛に悩まされないし、日々変化する身体の面倒を見る(メンテナンス)必要から解放される訳です。その差を、漫画版では、ネットを自在に駆け巡り自由に生きる女性として描いているし、映画版ではその余ったリソースを持て余しているように描いているように見えました。映画版の素子がどことなく心もとない印象があるのは、この「持て余した部分」を私が感じているからなのかもしれません。こういう理由からゴーストとは、身体と無意識の間の声だと思うんですね。ゴーストは囁くだけで、はっきりとした発話はしないと思うのです。身体という言語を持たないものが発する「声」というのは確かにあって、理由もなくイライラするとか、無性に悲しいとか、女性ならだいたい経験上知っているんですよね。*4こういう考えから、人間がサイボーグ化していくと、2つのことを手に入れると思います。一つは身体から自由になること、そしてもう一つは自由になった残りの部分をどう使うかということ。ただ、この残りの部分は、意識のサイボーグ化という変化を遂げると解消されると思います。映画版の最後で素子が上部構造へシフトしたこと、これが次章の「意識のサイボーグ化」じゃないかな、と思いました。ちなみに「意識のサイボーグ化」は私が勝手に考えた言葉で本とは関係ないです。


4章では前章の身体のサイボーグ化に対応して、意識のサイボーグ化を不死というキーワードで考察しています。スカイ・クロラは読んだ事はなくて映画しか観てませんが、不死というか、死と生を繰り返す人間「キルドレ」というキャラクターを通して生と死、自分と他者を描いている作品なんですね。人間というのは物理的に死んだら終わりというのが常識なのですが、これを再生できてしまったらどうなるんでしょう。宗教では輪廻という魂の再生という概念がありますが、生きながら輪廻している状態になるわけです。そうすると前世も「自分」だし、来世も「自分」ということになってしまう。でも死ぬまでの人生=前世は他人なんですよね。ということは自分という他人の連なりを生きて行く事になるんですね。自分という意識と他人との意識との境界が曖昧になっていく。映画版ではこの連続を、癖で表現していました。そしてこの連続を断ち切ろうと試みるんですが、ここから読み取れるのは、自分と他人との差異を確認したいという欲求だと思うんですね。前世も来世も切り捨てて個別の「自分」であろうとする。でもこういう問題が起るのは連続した意識が一つの身体に存在しているからだと思うんですよね。そうすると前章の身体のサイボーグ化によってこれは解消されるような気がします。


この本は二つの物語を交える事で、サイボーグという存在を物理的、精神的に見出そうとしているのがとても面白かったです。そういう物理的、精神的にサイボーグと化した、多重化する身体と連続する意識が行き着く先を考えると、また個に収束するんじゃないかな、と思います。システムは集中と分散を繰り返すって言うしね。分散した時の意識の状態は個体としてはちょっと想像できないですね。そういう個が再び収束した時は、言語という伝達効率のあまり良くないコミュニケーション手段は使われないと思います。

*1:Ghost In The Shell より人形使いの台詞「コンピューターの普及が記憶の外部化を可能にした時、あなたたちはその意味をもっと真剣に考えるべきだった」

*2:攻殻機動隊SACStand Alone Complexのようなもの?

*3:まあ、乳とか尻がぷりぷりしてた方が好ましいんだろうけど

*4:もちろん男性にもそういうのあると思う