「サイエンス・イマジネーション」



2007年に開催された、SF作家と科学者による、討論や研究発表とそれにインスパイアされたSF小作品をまとめた一冊。なかなかのボリュームでしたが、構成が解りやすくていつもの読書のように楽しめました。


人型ロボットの必要性がいつも疑問でした。産業用ならまだ分かるのですが、人型である必要ないよね。例えば介護用にロボットを作るなら、まずそれぞれに用途に合わせたものを作りゃあいいんですよ。食事用のアームとか、会話用のインターフェースとか。アトムのように全てを一つのボディに盛り込む必要なんてないじゃない。もし人の形をしたロボットを作る理由があるとしたら、実用面からの必要性ではなくて、きっとセンチメンタルな、恋人や友だちが欲しいとかそういう感情面からのものじゃないかな、とずっと思ってました。デカルトは死んだ自分の娘そっくりの人形を常に身近に置いて可愛がっていたって言う、とても有名なエピソードがあるんですが、それ以上の必要性なんて想像もできなかったんですよね。
だからその疑問に対しての研究者側の発表がすごく興味深かったです。ざっくりと言ってしまうと、「意識というソフトウェアを構築するためのハードウェアとしての身体」というものなんですが、技術的な側面からの必要性がようやく自分の中で納得できるかたちで提示されたなあと、すごくわくわくしながらそれぞれの発表を読みました。一番興味を持ったのは、オルタナティブ(もう一つの)な「私」というもので、まあ言わば「私」のバックアップみたいなものなんですが、四六時中私によりそって私の人生を外部化してくれるというものなんですよね。私が分化されるというか、いつも心の中で話しかけている自分を外に出したみたいな。この発表を読んで人間って宿命のようにこういう多重化をしてしまう生き物なのかと思いました。身体の多重化としてのロボットや遺伝子操作に留まらず、今度は意識そのものを多重化しようとしているのかな。でもこの理由を突き詰めて行くとやっぱり私はどうしてもセンチメンタルな、個人の孤独に行き着いてしまうんですよねえ。


こういう発表もあってか、身体性への言及が多いのが意外でした。パネリストのエイミー・トムスンさんが言及していたように(このセッションの中で彼女の発言が一番理解出来た(笑))一般人でかつ女である私が想像する身体性と、ここで言及されているそれとではかなり差がありそうですが。科学が扱う身体や意識ってなにかのモノに還元出来るものを指すんでしょう。人間の身体はそれをどこまで置き換えられるのか、という線引きの問題でもあるだろうし、ソフトウェアとしての意識はリアリティをどう扱うのかということなのかもしれません。うーん、身体をどこまで置き換えたら〜っていう話は映画「Ghost in the shell」の中で言及されているテーマだと思うし、意識というかリアリティの問題は映画「マトリックス」のテーマの一つでもあると思います。パネリストの方がそれぞれ独自の見解を述べているのがとても興味深かったですね。


SF小作品の中で一番面白かったのは、山田正紀さんの「火星のコッペリア」でした。こういう話好きだなあ。飛浩隆さんの「はるかな響き」もすごく良かったです。文章のリズムとか流れがとても美しいんですよね。円城塔さんの「さかしま」。いつもどおりだなあ(笑)と狐に化かされるのを楽しむような気分で楽しみました。