「ハート・ロッカー」



テロ多発地域で爆弾処理に従事する米兵達の戦いを描いた作品。いわゆるハリウッド的な盛り上がりがほとんどない、ドキュメンタリーのような実直な印象の映画でした。手持ちカメラのアングルが多く、ぐらぐらするシーンが多いので画面酔いしやすい人は注意です。(ていうか軽く酔った)


兵器の中でも爆弾はちょっと特別な存在なんじゃないだろうか。武器にそれほど詳しい訳じゃないけど、トリガーを引き、弾が飛び出して対面の人間を殺す銃はナイフ程ではないにしても視覚としては直接的だ。それに対して使用者が自ら引き金を引くことのない爆弾は間接的だ。視界の中ではなく使用者の想像の中で人間はらばらになって死ぬ。使用者がそれを直接見ることはまずない。実はこの映画はそんな、想像の中の殺人なんじゃないだろうか。想像の中で人が死ぬことと、スクリーンの中で人が死ぬことと、どんな違いがあるだろう。これはもしかしたら爆弾を仕掛けた人間の想像なのかもしれないとそんなことを思った。


爆弾を解体するという緊張感は、映画やゲームに取り上げられる盛り上がる要素の一つだ。時間との戦いや仕掛けた犯人との頭脳戦など、銃をぶっ放す派手なアクションとは違う、固唾をのんで見守る静かで熱い高揚があるからだと思う。仕掛けた側が勝つのか、解体する側が勝つのか、爆弾解体には見せ物としての一面がある。そしてこの映画ではそんな一つのショーとしての爆弾解体を扱っているのではないだろうか。劇中、爆弾が発見されたという情報に人々は逃げるどころか逆に集まってくる。それは現地の人々が嫌う米兵が爆弾処理に失敗してばらばらに吹っ飛ぶ瞬間を、(不謹慎ながら)ショーとして楽しみにしているからではないだろうか。そして解体する米兵ジェームズは、それを半ば自覚しているように見える。彼が無謀な行動に出るのは、自身の高揚したい欲求を満たすためでもあるけど、このショーの出演者として最高に盛り上げたいという要求ももしかしたらあるのではないかと思う。


戦場はいつも別の所にあって、自分の身の回りに物騒な武器は存在しないし、精巧な玩具があったとしてもそれを自分に向ける人間なんていないと何の根拠もなく妄信している。でも、それは単に遠いというだけなのかもしれない。戦場には、ここからが危険でここからが安全という線引きは存在しないし、何時始まって何時終わるのかも分からない。生活の隣にさりげなく戦場が存在する。爆発に巻き込まれ、地面に転がったジェームズの目に、真っ青な空に浮かぶ凧が映る。これは心象風景としても優れていると思うけど、現実に起こり得る風景として見ると、その現実と戦場がなんの隔たりもなく地続きであることに驚く。きっと戦場へは歩いて行ける。


人の顔を識別する機能が人間に備わっているのは、誰かを特別な存在として自分の人生の物語に登場させる為だと思う。逆に言えば、その「誰か」を識別出来なくなった時、その物語は揺らぐ。ジェームズは現地の少年と短い間交流するが、ある出来事が起きて彼は少年を見誤ったことに気づく。この一連のシークエンスが物語るのは、彼は彼なりに必死に自分の人生を取り戻そうとしていたということではないだろうか。他の米兵たちは「現地人はみな同じ」と言って取り合わないところを、彼だけが特別な「誰か」を見出してささやかな交流を持とうとする。自分の物語の中に、名前のついたその少年を登場させた。しかしその少年を識別出来ない彼の物語は揺さぶられ、あっけなくその一部を崩してしまう。そんな残酷さが描かれているように感じた。


全体的にフォーカスが安定しない、ブレの多いカットが多くて直視するのに苦労しました。もっとちゃんと見たかった…。でも戦場での危うい高揚感や、刻々と変化する状況の描写としてはとても良いなと思いました。
あと、スナイピングは観測手と狙撃手の二人でするというシーンが見れて良かったです。某ゲームのおかげで、一週間くらい飲まず食わずで待ち伏せするとか、森の中で光合成するとか、変な狙撃手ばっかり見てたから、現実に近いスタイルを知ることができました。それとリアルなボムブラストスーツも見れて良かった。あれ、強い風の吹くところも有効らしいですよ(笑)