「わたしを離さないで」

わたしを離さないで

わたしを離さないで



!!! ちょっとネタバレしています。!!!








「Something I can never see(決して知り得ない何か)」


表紙のカセットテープに惹かれました。この作者さんの本は初めてでしたが、久しぶりに没頭してあっという間に読んでしまいました。


主人公の一人称でとつとつと語られる穏やかな文体とは裏腹に、当事者の暗黙の了解で進められる展開に隠されたミステリー部分が非常に面白かったです。一人称なので主人公が既に知っていることについては説明がないんですね。だから読者は突然出てくるキーワードが持つ意味を想像しながら読むしかないのですが、この謎のタネ明かしのタイミングがまた絶妙なんですよね。ひっぱってひっぱって、読者の興味が失われる前にさりげなく明かされる。こういう語り部だけの視点でマスクされた世界が徐々に明らかになっていく構成の妙や内面と世界を結びつけた語り方は、小説ならではの面白さだなあと感じました。
そしてこの内面の描写がとても巧みなんですよね。登場人物の心の動きや考え方の変遷を、一人称視点という制約がありながらもとても緻密に書き込んでいるんですが、無駄がなくて過不足ない描写でした。これ以上過密だとくどくなるし、これ以上少ないと味気ない心理描写にしかならない、その書き分けがとても巧いと感じました。その上とても読みやすい。文章はかなりのボリュームなのに、ラジオのように耳元で静かに語りかけられているうちにあっという間に時間が過ぎて行くような、不思議な時間感覚でした。
お話の方ですがこの作品では、ある事情から自分の人生が前もって他人に決定付けられた人々が登場します。語り部である主人公キャシー、親友のルース、幼馴染のトミー、彼らの幼少から、成長、人生が終わるまでが描かれています。これ以上書くとミステリー部分の面白さを削いでしまうので書きませんが、彼らは自分自身の人生を生きることができないという前提で感想を述べます。
彼らは予め自分の人生が自分に帰属しないことを知らされています。つまり彼らの人生を決定付けた社会(他者)は説明責任を果たしているわけでその点では誰も責められないのです。だけどもし自分の人生が誰かによって決められていたらどうでしょうね。「自分の人生は自分で決める」という(出来るかどうかは別として)強気の考え方を私はしてしまうのですが、彼らはそうではない。決められたものをそのまま受け入れるのです。この部分がとても違和感があるというか、この作品の中でも非常に不気味なところで、誰一人そのことに疑問を持たないんですね。搾取という言葉は、奪われる何かを持っている者だけが使う言葉で、彼らは最初からそれを持たないで生まれてきたとも言えますが、これは少し違うように思います。というより、最初から「持っていない」と錯覚させられてきた。本当は彼ら自身で選んでいける人生があるのに。この小説はそういう弱者が語る物語だと言う感想が一番適切なのかもしれないけど、ここではちょっと違う見方をしてみたいと思います。
確かに彼らは搾取されているけど本当のところ彼らはそれを望んでいないように思えます。それは望まないように巧妙に操作されていると考えることができるかもしれません。登場人物の一人はこのように考えています。

「何をいつ教えるかって、全部計算されてたんじゃないかな。(中略)何か新しいことを教えるときは、ほんとに理解できるようになる少し前に教えるんだよ。だから、当然、理解はできないんだけど、できないなりに少しは頭に残るだろ?その連続でさ、きっと、おれたちの頭には自分でもよく考えてみたことがない情報がいっぱい詰まってたんだよ」
カズオ・イシグロ著「わたしを離さないで」

主人公はこれに対してこのような陰謀論は否定しますが、どこかで納得もしているようです。習った言葉が意味を持つ、という経験はきっと誰にでもあると思うんですよね。文脈の中で言葉が正しく使われたという確信、言葉の意味にきちんと焦点があった瞬間って自分でも少し驚いたりします。でもこの理屈だと言葉が意味を持つ前に頭に詰め込まれて、焦点が合わないまま漠然と知っているということなんですよね。小説「一九八四年」の感想で私は、言葉と世界は一対であり、言葉を変えることは世界を変えることと同じと思ったのですが、この小説は言葉の意味が無意味化される、つまり世界が現実味を失って行く話なのではないかと思います。そしてこの無意味化こそが、恐らく私が感じた不気味さなんでしょう。
今のところ私はそれほど不自由は感じていませんが、それももしかしたら既に知っているのに意味がぼんやりとした何かを本当に知らないだけなのかも知れません。