「ソラリスの陽のもとに」

「愛情を悼む方法」

失恋したら髪を切る、ってどの年代まで有効なんですかね。今の子は失恋したらメアド*1消すとかなのかもしれないけど。メアドにしても髪にしても、それまでの誰かとの繋がりを「断ち切る」という行為には違いないわけです。切り捨てるという行為に心は痛むけど、アドレスを消すのは一瞬だし、髪を切っても血が流れることはないですよね。これは「断ち切る」という一つの儀式であって、この行為そのものにはそれほど意味はありません。では逆に、心に消してもいいメモリのような、切っても構わない髪のような部分が出来てしまったら?自分の心でありながら切り捨てても痛みを感じない部分が出来てしまったとしたら、どうすればいいのでしょうか。切り捨てることは簡単でしょう。自分は痛みを感じないですからね。でも相手がまだそこに血を通わせていたら、悲劇を想像するのは難くないはずです。
この物語の主人公クリスの根源的な悩みは、このいつの間にか失ってしまった愛情にあるように思います。そのことに(潜在的には気づいていると思うのですが)気づかないために苦しみ、またその苦しみを罪悪感の代償として甘んじて受け入れているんですね。でもそれではずっとそこに留まったままで前に進む事が出来ない。ではどうすれば良いのかというと、やっぱり同じなんですよ。切り捨てるという方法でしか、それは既に自分の中から失われている感情だと気づくことでしか、その愛情を弔うことはできないんじゃないかと思います。多分それを認めてしまうのはとても怖いことなのかもしれません。それでもこの物語の最後でクリスはある一つの期待が自分の中に残っている、と独白しています。それは彼女(ハリー)が戻ってくるということでも、彼女との思い出の中に生きるというものでもない、彼自身も分からない期待、とされています。その期待というのは愛するという行為そのものであり、彼女が最後に望んだものでもあると思うのです。
SFのF=フィクションの部分にとても感動した作品でしたが、S=サイエンスの部分もとてもいろいろなアイデアに富んでいました。今では意思疎通が不可能な知的生命体という設定はあまり珍しくなくなりましたが、それでも単種単体(一つの種別に一つの生物)で海ほども大きな容積を持つ生命体が人智を越える知能を持っている、という設定は今でもまったく色あせていないなあと感じました。このソラリスの海と登場人物の一人であるハリーという女性との関係性も、単に「母なる海=女性」という解釈だけではとても足りない、世界と個人との繋がりを象徴しているようにも思いました。

*1:ふだん「メアド」ってあんまり言わないけどな