パターン・レコグニション

パターン・レコグニション

パターン・レコグニション

デザインの流行を「先天的に」見抜く能力を持つケイスは、クライアントからネットで流行している断片映像(フッテージ)の作者を捜し出すよう依頼される。

久しぶりのウィリアム・ギブスン。どういう物語になっているかなーと読み始めてものすごくビックリしました。ギブスンを読むキーワードの一つは「ださい」だと思うんですね。電脳三部作における電脳空間を駆けるジョッキー(競馬のジョッキーと同じ意味)や電脳空間に没入する為のデバイス、トロード(エレキバンみたいなやつとディスクシステム)のイメージ。その後の「あいどる」の電脳人格との婚姻とか、どこかむずむずするような、それでいて安堵感を覚える「だささ」が必ずあったように思います。が、冒頭から出て来るのは、リーヴァイスに、Gショックプラダに、ローラ・アシュレイ、トミー・ヒルフィガー、ポール・スミスなどなどなど。ええーなにこれ、ギブスンなのになんでこんなにおしゃれキーワードが?と、かなりびっくりしたのですがもちろんこれらのブランドが、「おしゃれ」を示すガジェットとして登場するはずもなく、ブランドのロゴというシンボル=記号をSF的なガジェットとして扱っているんですね。いやいや本当にびっくりしたわ(笑)シンボルの種類は欧米のブランドだけでなく、物語中に登場する日本のものもいくつか登場しています。その中でもこの一文にはかなりぐっときました。

こげぱんという、まるで手がかりのない感じのホムンクルスもおなじこと。

すげえと思いませんか。あの茶色いまるまるした日本の子ども向けキャラクターが、ギブスンの手にかかるとこんなに異質なイメージが引き出されるなんて!面白いことに、主人公ケイスのシンボルアレルギーは、こういう日本製のブランドには反応しないんですね。特に無印良品。今ならユニクロも範疇に入るかもしれません。無印良品ってそういえば、ブランドでありながらブランドのシンボルを持たない、否定であるが故に唯一という上手いところを突いてるブランドなんですよね。サンリオキャラクターとディズニーキャラクターの違いも、こういう視点から見ると文化的な背景から全然違うものなんじゃないかなあという気がして面白いですね。
そういえば、ギブスンが記号を扱うのはこれが初めてじゃなくて、初期短編集「クローム襲撃」の「ガーンズバック連続体」(無性に名前がかっこいいわ)というものがありました。大衆が夢見た華々しいけれど決してやってこなかった未来の断片を「記号論の亡霊」として見てしまう男性の物語。これ、記号を「目撃する」という点はこの作品に似ているのですが、改めて読み返してみてこれ実は「現在」の物語であり、「パターン・レコグニション」が世界の「いま」を語るという構成とよく似ていることに気づきました。そこで改めてこの両者を比べてみると、やっぱりくっきり浮かび上がるのは911以前か以後かということなんですね(「ガーンズバック連続体」は1981年の作品)この頃はまだ、架空の暗黒郷(ディストピア)に逃げる事ができた時代でした。でも、私は未だに2001年の同時多発テロのあった日の朝、会社の同僚と「映画みたいだね」と語ったことを覚えているんですよね。それこそ毎週のように観ている映画のワンシーンが再現されているようにしか思えなかった。映画の世界から「いま」の世界へ。いままで酷い世界を描き続けてきたフィクションから逆襲されたみたいな感じ。だから「いま」はフィクションの世界に逃げることができないんじゃないかと思います。この二つを比べるとそういうところが見えて来るような気がするし、何故今回こういう未来でも過去でもない「いま」のお話になったのかというのは、こういうところにあるんじゃないかなあと思いましたね。
日本の女性ファッション雑誌に時折載っているもので、モデルさんが架空の人物(大手広告代理店や有名メーカーで働いている女性など。気になる同僚がいたり、彼氏がいたりとバリエーションがある)に扮して一ヶ月間の着回しを日々の一コマとして紹介して行くというものがあるんですが、まあ普段はこれを「ねーよw」的な羨望と侮蔑に満ちた視点で読んでいるのですが、これもギブスン的な視点で観てみるとすごくSFな感じに思えてきます。なんていうか「あり得るかもしれない私」のコラージュという意味では、すごくよく出来ているんですよね。サンプリングを平面に写し取るだけじゃなく、擬似的な奥行き(会社でのありがちな失敗、ちょっとしたサプライズなどなど)の設計も面白い。まあこれ企画してる人はきっとケイスみたいにそんなことにいちいち説明つけようなんて思わないだろけど。