英国王のスピーチ

第二次世界大戦直前のイギリス、王族の第二後継者であるヨーク公は薄暗い階段で物思いに沈んでいた。傍らには彼の妻が寄り添い慰めを与えているが、彼には届かない。やがて従者に付き添われてヨーク公は厳粛な空気に包まれている演説台に立つが、マイクを通して聞こえてきたその声に聴衆は失望の色を見せた。彼は上手く話すことができなかったのだ。

この物語は、ヨーク公(後にジョージ6世)の王として持つべき威厳や責任を「声」というもので表現していて、それを獲得していく成長物語だと思いました。ただの成長ものというだけではなく、再びその過程を経るという「再」成長とでもいうような感じでしょうか。この物語の主人公、ジョージ6世の吃音の原因は幼少時代の心の傷として描かれていますが、それを大人になってしまってから回復しなければならないんですね。その外見はまったくの大人なんだけど、風変わりな治療師ライオネルに対してだだをこねたり拗ねたり怒り出したりする姿は子どもそのもので、治療のシークエンスは単なるコメディの他にも、そういう大人と子どもという層を重ね合わせて観ました。ジョージ6世役のコリン・ファースさんの、緊張した時に見せる、顔は大人なのにどこか泣き出しそうな子どもをうかがわせる表情がとても印象的でしたね。そういう意味では、この治療師と王様の関係は擬似的な父と息子と見る事が出来るし「初めて自転車に乗ろうとする息子と手助けをする父」なんじゃないかと思います。自転車の練習と同じように、王様も何度も何度も挫折したり立ち直ったりします。ここで重要なのは「失敗しちゃいけない」ということじゃなく、「失敗しても大丈夫」と王様が思えることだと思うんですね。この否定的な気持ちが声を奪っているのは明白で、それを信じさせるためにどんどん心に踏み込んで行くライオネルとの関係の変化がとても面白かったです。
一番心に残ったのは、執務室で思わず王様が泣き出してしまうところ。そこには「いい大人が情けない」という失望よりも、まるで子どもが自身でどうしても乗り越えられない壁を前にして悲しんでいる切なさがありました。唯一の救いは妻が傍らでほのぼのと慰めるんですね。叱咤でも罵りでもなく受け入れてくれる。こういうシーンはいくつかあって、その度にこの人が居てくれて良かったと何度も思いましたね。この役のヘレナ・ボナム・カーターさんのほんわりした感じが、王様のビシビシした緊張オーラを和らげていて不思議な味わいがありました。この役は地味ながら彼女じゃなきゃ駄目だったかも。それと映画の最後の演説に取りかかる直前のシーン。吃音を克服するための様々な試行錯誤を時おりコメディタッチで描いてきたのですが、ここでは笑いのかけらもなくまさに悪戦苦闘、必死な姿に笑うことも忘れました。そしてそれを常に穏やかに指導するライオネル(ジェフリー・ラッシュ)がすごく良かった。演説が終わった後の擬似的な父としての役割を終えた後のようなちょっと寂しそうなそして誇らしそうな複雑な表情が素晴らしかったですね。