日の名残り

日の名残り (ハヤカワepi文庫)

日の名残り (ハヤカワepi文庫)

イギリスの名家、ダーリントン家に遣えていた執事スティーブンスは新しい主人の提案で小旅行に出る。それは、彼や彼を取り巻く人々の過去、またこの国の歴史を辿る旅でもあった。

執事というのはゲームやアニメでしか知らない職業であり、もちろん小説もフィクションであるけれど、キャラクターの設定としてではなく、職業としての執事を描いていてとても興味深いものでした。特に驚かされたのはその職業意識の高さ。当時のすべての執事がこのようであったとは思わないけど、少なくともそうあるべきというものはあったのではないでしょうか。人生の全てを主人に捧げる、「滅私奉公」という言葉そのままなんですね。たとえば語り手の執事スティーブンスがプライベートな旅行に出かける前の記述にそれが凝縮されているように思います。

貯金をにらみながらあれこれ考えたすえ、結局、予想されるすべての費用を支払っても、新しい服の一着はくらいなんとか捻出できそうだ、との結論に達しました。これほど服装にこだわる私を、鼻持ちならない気障とみなす方もございましょうが、そうではありません。旅行中には、身分を明かさねばならない事態がいつ生じるかわかりません。そのようなとき、私がダーリントン・ホールの体面を汚さない服装をしていることは、きわめて重要なことだと存じます。
カズオ・イシグロ著「日の名残り

この執事とはこうあるべき、という姿勢から、品格とは何かという問いへと展開して行きます。この品格の「何であるか」という部分はちょっとこの時代とはだいぶ差があるのでそれほど共感はなかったのですが、品格とは「どうであるか」という部分はなるほどなあと思いました。文中の言葉を借りれば

偉大な執事は、紳士がスーツを着るように執事職を身にまといます。公衆の面前でそれを脱ぎ捨てるような真似は、たとえごろつき相手でも、どんな苦境に陥ったときでも、絶対にいたしません。それを脱ぐのは、みずから脱ごうと思ったとき以外にはなく、それは自分が完全に一人だけのときにかぎられます。
カズオ・イシグロ著「日の名残り

ということなんですね。ナントカの品格とか、いろいろありますけど社会の一員である人間が服を着るのと同じように、精神的にきちんと衣服をまとうということなんだと思います。

そういう執事という生態を見せる部分もとても面白いのですが、物語の構造がすごいと感じました。この物語の主人公、スティーブンスはいわゆる「信用ならない語り手」ではないんですね。主観は混じるけれど、概ね客観的な事実は正確に語られて行くのですが、この主観に罠があって、彼は彼自身の孤独に対して気づくことがない。何気ない会話のなかで、切り捨てられて行くものの大きさを彼は実感することがないんですね。ここに気づいた時、読んでいて本当に寒気を感じるくらい怖いと感じました。人間は自分で思っている以上に孤独なのかもしれない、と。例えば、彼の執事人生の中でもひときわ困難な大仕事が二度あるのですが、その最中に彼は非常に大きな機会を失っているんですね。それは確かに執事としては必要のないものであり、彼は難なくそれを切り捨てて行くのですが、一人の生きている人間としてはそれは切り捨ててはいけないものだった。この作者は「わたしを離さないで」で、何も知らないまま死んで行く人々を描きました。それはある意味「イノセンス(無垢、世間知らずな)」の一つのかたちを描いたのではないかと思うんですね。で、この「日の名残り」では知らないでいることを許さない。スティーブンスははっきりと自分の人生でその切り捨てては行けないもの、失われたものの大きさを自覚します。それで彼に何が出来るかというと、ただ海を見つめながら泣くことだけなんですね。これももう一つの「イノセンス」のかたち、世間知らずという部分が抜け落ちた一つのかたちなのかなと思います。そしてその無垢さ故に獲得したもの、このスティーブンスの人生すべてをかけた執事という仕事が成し遂げたこと、それを否定することはできない、というより否定されることがなければいいなあと切なくなりましたね。

物語はこのようにちょっと悲しい感じなのですが、ところどころ面白いところがあって、例えばスティーブンスが主人の車を借りて旅行に出る計画を立てているシーンがあります。

たとえば、旅の費用です。「ガソリン代はぼくがもつよ」というファラディ様の気前よさにおすがりするとしても、宿泊費、食事代、路上でのおやつ代などで、旅行全体の費用は思いがけない額にのぼるかもしれません。
カズオ・イシグロ著「日の名残り

おやつ代の心配をする執事て、ちょっとかわいいと思いませんか。文中にこのスティーブンスの年齢の記述はないけれど、恐らく中年の終わり頃、初老と言ってもいいくらいの年じゃないかなと思いますが、時々どこか子どもっぽい雰囲気があるんですよね。そういう部分もあって面白かったです。