スキャナー・ダークリー

スキャナー・ダークリー (ハヤカワ文庫SF)

スキャナー・ダークリー (ハヤカワ文庫SF)

麻薬捜査官のフレッドはおとり捜査として、ボブ・アークターという名で麻薬常用者たちの中で暮らしている。ある日捜査本部に呼び出されたフレッドは、上司からボブ・アークターを監視するように命令される。自分自身を監視する為に設置されたスキャナーに映っているのはいったい誰なのか。しだいに彼は分からなくなっていく。

私が「私」であるという感覚、というのはさほど特別なものではないと思います。名前を呼ばれる時、昔の思い出を誰かと共有する時、私は私なのだと感じます。それが当たり前であればあるほど、「私」という感覚は絶対的なものだと信じるようになるんだと思うんですね。でも意外とこの感覚というのは当てにならない、曖昧なものなのでしょう。
この物語の主人公フレッドの感覚を例えるなら、自分で思ってるよりも酔っぱらってしまった時の感覚、とでも言えるでしょうか。平常の状態からいつの間にか泥酔直前の状態まで移行すると、その酔っぱらい具合にびっくりすることがあります。真っ直ぐ立ってるはずなのに足下がふらふらだし、まともなことを言っているつもりで全然筋の通らないことを言っていたり。あれー?こんなはずじゃないのに。おかしいな。この自分の中の「私」のイメージと、「私」だと認識する感覚の間には実はずいぶんと大きな隔たりがあるんじゃないかと思うんですね。そしてこの物語はその隔たりを罠として仕掛けているように思いました。物語はフレッドの主観を取り入れながら、巧妙に彼が認識する感覚を覆い隠して全貌を見せません。そもそも彼が本当にフレッドなのか、ということすら決定的ではないんですよね。フレッドの持っている自分の中の「フレッド」像を全面に押し出しながら、本当に彼が認識している自分自身との隔たりが徐々にその口を開けて行く、そういうふうに物語は展開して行きます。
ところでどうして私は「私」として認識できるのかというと、それは「ここにいるのはあなた」という視線があるからだと思うんですよね。人は誰かに眼差しを向けられることで自分だと認識するのではないかと思います。もちろん、誰も居ない時は自分が自分を見つめているからそうできる。そういう時の私は眼差しの主体でもあり、また対象としての「私」でもあるんですね。ではもしその対象がとても暗かったらどうなるでしょうか。カメラをやっているとよく明るさの指定(露出)を間違えて真っ黒な写真を撮ってしまうことがあります。そんな写真を見せられたら?そこには人の顔が映っているのかもしれない。でもそれはもしかしたらテーブルクロスにこぼれた飲みものの染みでしかないのかもしれない。フレッドは自分のイメージと認識の間にある隔たりの闇の中に沈んでしまったのではないかと思うんですね。彼を見つめる監視用のスキャナーは彼自身の視線そのものであり、また認識される「フレッド」自身でもあったのではないでしょうか。
「私」が暗闇に包まれて行く物語、というとどこか怖いもののように思われますが、実際の読後感は奇妙な平穏すら感じました。
それは完全な暗闇に沈むということは、「私」だと規定する視線からの解放を意味するのではないかと思うんですね。もちろん「私」という存在も同時に失われてしまうのですが、そこに空いた空虚は不思議な安らぎがあるように思いました。