星を追うこども

!!! ネタバレしてます !!!






秒速5センチメートル」の新海誠監督のアニメーション最新作。
中学生のアスナは家族や友人に囲まれた平和な日々を過ごしていたが、ときどき近くの小高い山の上で一人、ラジオの周波数をあてどなく合わせて聞こえてくる音に想いを馳せていた。ある日、明日菜はその秘密の場所で不思議な少年に出会う。

ここではないどこか。あの星の彼方。胸が苦しくなるような遠い背中。旅立ちの期待と不安。十代の初めの頃に感じていた、あの胸を焦がすような憧れ。
カズオ・イシグロという、幼少を日本で過ごしその後渡米した作家さんが居るのですが、この前テレビで特集*1をしていてその中で、彼の作品から感じとれる郷愁(ノスタルジー)は彼の中で構築された「どこにも存在しない日本」に起因する、と述べていました。決してたどり着けない空間にそれがあるとしたら、決して戻れない時間の側にもそれはあるのではないでしょうか。
時間は戻せない。これを象徴しているのが、この物語に登場する死者たちなんですね。彼らは平穏で優しい日々を、そして十代の一時期にしか訪れないたった一瞬の輝くような時間を表している。この映画は、アスナや他の生者たちのそういう喪われたものを探し求める旅なんですね。でも、戻せないものはどうしたって戻せない。冒険ものというプロットで巧妙にそれを隠しながら物語は進んで行くのですが(観てる方もうすうすは感じるとは思いますが)結局彼らの探し求めるものはなにも手に入りません。死者は蘇らないし、たった一度の初恋に再会できるわけでもない。それでもアスナたちはなにかに取り憑かれたように探し求めるんですね。それが生きる目的にすり替わってしまうほどの強さで。これは呪いなんだと思います。死者から生者にかけられた、逃れることが難しい呪い。心がそこに囚われたまま動くことができない。でもこの呪いを解く方法というのがあって、実はこの物語の真髄はこの呪いを解くことそのものにあるんだと思います。それをこの映画では祝福、というかたちで表現しているのだと思いました。これは生きている者からの視点では見えてこない。死者の側からすれば、喪われた存在をその心の一部分にでも留めて貰えるというのは嬉しい。「思い出は死に対する部分的な勝利」と、カズオ・イシグロは言っていましたが、同じことなんじゃないかと思います。そしてその呪いを解くために必要な行動は、泣くというとてもシンプルなものなんですね。この物語の「大人」の役割を担うモリサキという人物は、これができないがために多くのものを犠牲にします。でも私は彼のことがよくわかるんですよ。その泣くという方法は私も簡単にはできないようになってしまった。そうすることが大人になるということだから。そしてその、喪ったもののためにだけ泣くことができるのは、ほんの数回しかできないんだと思うんですね。たった一度の偶然でしかチューニングが合わないラジオの周波数のように、その時のその場所でしか起らない感情があって、その機会を逃してしまうと永久に訪れることはない。*2この映画は、そういう喪われていくものに対する一つの答えを出しているのではないかと思いました。
一つ気になるのは、この映画ところどころジブリ作品の符号が見えていて、それがちょっとオマージュというには目に余るような気がしたんですが、どうなんでしょう。まあ「アニメほとんど=ジブリ」という文化圏で、こういう少年少女の冒険ものをガチで描くというのは、鉄壁の要塞を攻めるのにも等しいのかもしれないなあとは思うのですが。好意的な観方をすれば、敢えて符号を点在させて、観客の脳裏にちらちら参照させた方がまったく隠してしまうよりもまだましだった、とかそういうなんでしょうかね。というのも、「これパクリじゃん」って思われるともったいないなあと感じました。まあ私が心配することでもないですけど。
一番印象的だったのは、アスナが出会った少年シュンが星空に手を伸ばしながら、届きそうだと呟くシーン。この段階で彼が何者か、星を見ることが彼にとってどんな意味を持つのかはまったく説明されていないにも関わらず、その憧れと切なさが入り交じった気持ちの強さが、画から伝わって来て心が揺さぶられました。こういう、言葉にする前のプリミティブな叙情を鮮やかに切り取る新海監督の手法は素晴らしいと思うし、こういうのをダイレクトにどんっと出せるというのは、やっぱり映画のいいころだと思いますね。

*1:NHKカズオ・イシグロを探して」

*2:じつはこれ「秒速5センチメートル」でも語られていたことだと思います