映画の教科書 どのように映画を読むか

映画の教科書―どのように映画を読むか

映画の教科書―どのように映画を読むか

もともと映画を観るのが好きで、ネット環境のおかげで様々な人の批評や感想に出会ううちに「んじゃ、私もちょっと」と軽い気持ちで始めた感想ブログですが、ときどき「これってもうすでに誰か書いてるわ」とか「いやー…『ふつう』としか思えない」などなど行き詰まることもあり、自分なりに映画の観方を模索するのはそれはそれで楽しいのですが、ここらでちょっと基礎的なところを見直してみようかと思っていました。

というわけで、珍しく実用書です。あまりこういう本を読まないのでどうかなーと思いつつ、読んでみたら頭の中でもやもやして言葉にできなかったことがすぱっと説明されていたり、軽く見ていた部分の重要性を説かれたりしてなかなか有益でした。が、実は後半がだるくなってしまって読めてません。いや、個人的には3章の「映画の文法」が一番読みたかったところなので、そこを過ぎたらなんだかモチベーション急降下でした…ははは。

1章から映画を含む芸術一般の解説から、という点がとても丁寧だと思いました。基本的には映画の立ち位置を確認する上での、他のジャンル(文芸、絵画、音楽、写真など)との比較という風に理解しました。その中でも興味深かったのは、小説と映画との比較ですね。この本では、時間(映画はせいぜい2時間でも、小説は何十巻と続くこともある)と、視点(映画はどこを見るかは観客任せ、小説は作者によって規定される)によってその関係を明確にしています。これは私もちょくちょく考えることなのですが、どちらかというと映画はその表面的な表現力、百聞は一見にしかずという言葉通りの表現力が小説よりもあると考えています。そしてその表面的なものの力が大きい為に、緻密な論述が苦手なんじゃないかな、と。これ、「ダ・ヴィンチ・コード」という小説が原作の映画を観るとすごく良くわかるんですが、ラングドン教授の活躍や、推理の舞台となる実際の街並はやっぱり絵的に見た方が理解が早いけど、物語の背景にある謎の組織やキリストにまつわる歴史のことはやっぱり小説の方がより詳しく書かれているんですね。*1また、小説には単語一つでも情景を描くことができる(イメージさせる)機動力?もある一方で、映画には言葉にする前の情緒を原型のまま出すということもできるし、この比較はそれぞれの良さが確認できましたね。ちょっと余談ですが、この比較はゲームと映画、というかたちにも発展できるんじゃないかと思いました。どちらかというとゲームから見た映画という対比で今ちょっと考えているところです。

2章の映像と音のテクノロジーという部分は、純粋に技術解説として読みました。今ならほとんどCG解説でページが割かれるような感じでしょうかね。ここでも言及されていたけど、映画「2001年宇宙の旅」って今見たらさほどびっくりするような映像効果ではないんですが、CGというものが存在しなかった時代の映像としてはほとんどオーパーツ的な驚きがありますね。スーペースシャトルの中で乗客の胸に刺した万年筆(ボールペン?)が空中にふわふわ浮いて、それを客室乗務員が拾うシーンとか、CGなしでやってみろって言われたら難しいんじゃないかなと思います。まあ映画「ぼくらのミライへ逆回転」みたいな段ボールでなら可能かもしれないけど(笑)

3章が一番読みたかったところでした。この本のサブタイトルでもある「映画を読む」(原題はこちらがタイトルですが)ということ。映画は小説と違って見る前に文字を読めるようになっている必要がないんですね。ぼーっと見ているだけなら猫でもできる(と本書にあった)でもそれでは何も残らないですよね。「ああいい映画だったな」と思うのは、そこになんらかの意味を読み取ったからだと思うんですね。逆に言えば、その意味を読み取れる人ほど、いい映画体験をしているということになるわけです。いいなあ、羨ましいなあ。いったいどうすればそういう風になれるのか、どこに注意すればうまく読み取れるのか、そのヒントのいくつかがここに書いてありました。
まず一つはスクリーン上に登場するものには二つの意味があるということです。一つ目は単純に「それがそこにある」という説明の意味。例えば花が風に揺れているとかそういう、表面的な意味としてそこにあります。そしてもう一つは常識とか文化といった中での意味。その風に揺れている花が切り花で、ガードレールの側に置かれているとしたら、それがどんな意味を持つかはだいたい分かりますよね。それは私たちが交通事故があった現場でそれを見かける、つまり常識としてそういうものだと知っているから、その映像が意味を持つんですね。
次にそれがどういう分類であるかということ。まあこの辺は私も理解がちょっと曖昧なのですが、それは、類似記号(イコン)、指標記号(インデックス)、象徴記号(シンボル)の3つに分けられます。上の例で言うと花は、死者に手向けられるということで、死の象徴、風に揺れる花というのは、その周囲で風が吹いていることを示す(映画では何かを配置するか動かさないと状況を説明できないので)指標、もしその側に悲しい顔をした女性が佇んでいたら、それこそがこの映像が意味するものそのものであるので類似、という感じになると思います。うーんこの辺の分類はちょっと難しいのですが、最近の映画だと「インセプション」や「ダークナイト」のクリストファー・ノーラン監督はこういう記号を几帳面に映画内で体系立て扱っている監督ではないでしょうか。「インセプション」で主人公が常に持っているコマは現実と幸福の象徴、折り畳まれる街並の映像は夢の中であることの指標、類似はうーんなんだろう(笑)あと私がたまに使うメタファ(隠喩)というのは、簡単に言えば言い換えでしょう。
そして最後にそれらをまとめる構文があります。映画の文法は空間と時間の二つで構成されています。空間とはそのフレームの中の演出であり、時間とはモンタージュである、と。って言っても意味がよく分からないですね。映画の空間は基本的に平面です。ものすごく奥行きのある広大な荒野も、深遠なる宇宙空間も上映される時は平面に投影されます。今は3D上映というのもありますけど、それも奥と手前があたかも飛び出ているように見えるだけでその映画の枠をはみ出せるわけではないですよね(そうなるともうゲームになってしまう)その中でどうやって現実感のある虚構を作り出すかを、映画を作る人は考えるわけです。例えば逆光の中で影が二つ向かい合っているとなんだか陰謀めいているぞ、とか、アクションだと左から右へというパターンがけっこうあるんですよね。それは人間がそういう動きが生理的にしっくりくるかららしいんですね。確かにゲームだけどスーパーマリオは左から右に進むし、あれが逆だったらちょっとやりづらいかも。演出というよりも画面設計と言った方が具体的かもしれません。映画を観ていると役者さんにばかり注目してしまいがちですが(私は主にそうですが)、カメラのアングルや光の当て方、そして音などがどうまとまっているか、そのまとめ方にどんな意味を持たせているかというのを観てみるのも面白いかもしれません。
そしてもう一つはモンタージュです。というよりも、カッティング技術と言った方がいいのかな。例えば映画「(500)日のサマー」という映画は、主人公のトムがサマーという女の子と付き合って嬉しかったり傷ついたりした時間をばらばらにして映画として成立させているんですね。これ、順序立っていたら大した出来事もないつまらない恋愛ものだったと思うんですが、この時間軸をばらばらにすることによって、浮かれて舞い上がったトムが次のシーンでやさぐれて泥酔してたりすると、「おい!トムどうした?」と親友のように気になってしまうという効果があるんですよね。最近の映画ではモンタージュを効果的に使っている例だと思います。不思議なことにそうやって時間がばらばらになっていても人間の脳はけっこう補完できてしまうんですよね。そして順序立っているよりも、その方がむしろ現実感があったりします。空間のまとめ方があるとしたら、こちらは時間のまとめ方ですね。いきなりクライマックスから始まったり、過去のエピソードが挿入されたり、平行した時間で進んだりするなど、けっこういろいろな手段があるなあと思いました。

残りの章もなかなか興味深いところがあるんですが今回はちょっと断念。映画史や配給会社の成り立ちとかいつか調べてやろうと思ってるのですが。それとこの本やたら記号論とか弁証法とか難しい言葉が出て来て、うへえとか思いながら読みましたが、これ以降このブログでいきなり「外示的意味としては〜」とか言い出すことはありません(笑)

*1:この映画の上手いところはそれをラングドン教授に口頭で説明させながら背景にオーバーラップさせてさりげなく絵的に示しているところ