ドキュメント 戦争広告代理店

1990年代、ヨーロッパの「裏庭」ボスニア・ヘルツェゴビナとその周辺国で起きた紛争の舞台裏で繰り広げられていた情報戦を取材したドキュメンタリー。


最近とある小説を読んでいてこんな言葉と出会いました。「プロパガンダ」。特定の世論や思想へと誘導する宣伝文句、または宣伝活動のこと。あまりいい意味で使われるのは聞いた事がなくて、強烈な文句とやたら輝かしいイラスト(ものすごく明るい笑顔の人々とか、後光が差しちゃってる指導者とか)が描かれているような印象です。でもその内容がどうであれ、特定のメッセージを伝えて人の意識を変えようとするという部分はさほど政治色の強くない宣伝活動と同じではないかと思います。で、この特定のメッセージを伝えて人の意識を変えようとすることを、PR活動と言ったりします。「この人に投票して下さい」とか「この商品買って下さい」とか。ポスター作ったり、TVコマーシャル流したり、試供品配ったり。日本のPR活動はこんな感じなのですが、アメリカのPR活動はもっと攻撃的なんですよね。

PR企業のPRは「Public Relations」の略だ。(中略)PR企業のビジネスとは、さまざまな手段を用いて人々にうったえ、顧客を支持する世論を作り上げることだ。(中略)CMや新聞広告を使うのはもちろん、メディアや政界、官界の重要人物に狙いを絞って直接働きかける、あるいは、政治に影響力のある政治団体を動かす。

うそー映画みたい。と思ったら本当にそうなんでびっくりしました。
ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦の外交官が、自国の力では解決できそうもない問題を国際的な問題として取り扱ってもらうよう国連に働きかけるが、世界には他にももっと深刻な問題がたくさんある中、ボスニアだけに注目してもらうことは難しい。そこで彼が相談を持ちかけたのは、アメリカのPR企業だった。
仮にも一国の外交をアメリカの企業がサポートするなんて。そしてそれがあれよあれよと言う間に、紛争という混沌とした状況から「被害者」と「悪者」を生み出して行くんですね。これがPR企業の役割で、本書を読んだ伊藤計劃さんはこのように述べています。

人々が無意味に死にいく混沌とした戦場を(フィクションとして、そしてそれを真実として)物語化してゆく作業を行う、ストーリーテラーのお話。
伊藤計劃記録 第弐位相」より

すごく的確な言葉なので引用しました。そうこのドキュメンタリーに登場するRP企業は、シナリオライターであり、振り付け師であり、演出家なんですよね。そして彼らは顧客が満足するような「現実」を提供するわけです。これをSFと言わずしてなんと言えば。彼らはそういう現実を作り出す特別な立場にいる訳ではありません。もちろん政界に強力なコネクションを持っていますが、PR企業が表立って何かをすることはないのです。ではどうやっているのか。彼らの武器は言葉です。それもただの言葉ではありません。いや、言葉そのものは普通に使われているものなんだけど思い起こされるイメージの力が途方もなく強力な、特別な言葉なんですね。彼らはそれを選び出し、言葉の流通経路、メディアにそっと流すだけです。あとはあら不思議。その言葉を受け取った人々の意識の中で、イメージが広がり、その強烈なイメージは意識を変えて行く。人々の意識が変われば、それを構成する現実が変わる、と。
あたかも戦局を変える一発の弾丸のように、たった数文字の言葉が一国の運命すら変えてしまう。
この時代、まだ電子メールも携帯も今ほど普及していない時代の出来事だからこそ、情報の流通経路がまだまだ限られていたからこそ短い言葉に込められたイメージが収束して異様な力を持ったとも考えられます。受け手の側は大多数が新聞やテレビ、ラジオなどのメディアであったはず。では現在はというとその他に、ネットという制御不能な流通経路ができたことにより、その収束力は弱まったように感じます。同じニュースでもマスメディアから受け取るのと、ネットのように個々が発信するものとでは印象はだいぶ違うことって多いですよね。それによってイメージはだいぶ変わるでしょう。言葉の持つイメージをコントロールするのは難しくなります。それでも今も人々は言葉によって動いている(動かされてる、と言うべきかな)。今はもっと長い言葉、言葉と言葉の連なり、文脈じゃないかなと思います。たまにツイッターとかに流れてくるネットのデマを見てると、いかにももっともらしい感じがする時があるんですよね。それがずっと不思議で、頭では「いやいやそれはないわ」と思うんだけど、なんか納得させられそうな部分も確かにある。なんていうか、人間の意識にはそういう信じやすい話のパターンがいくつかあると思うんですよ。陰謀論を分析してみたら話の流れのパターンはさほど多くいんじゃないかな。まあ、こんな風に考えたのはやっぱり伊藤計劃さんの著作「虐殺器官」を読んだからでしょう。前掲の引用の感想などを読むと伊藤さんの言葉に対する感受性の高さがうかがえてその視点がとても面白いです。

最近(?)なら「非実在青少年」ってとこですかね。この言葉からアニメや漫画のポルノをイメージするのはなかなか難しいってことは、その卑猥さを見事に脱臭して国会でも堂々と扱えるアイテムに仕立て上げてることに成功してると思います。それに非実在という想像上の対象という点が面白いですよね。イメージをかき立てるのではなく、イメージそのものを指し示している。この言葉に不気味なものがあるとすれば、この意識を直接参照するという点にあるような気がします。