ドラゴンタトゥーの女

黒い噂のある権力者の不正を暴露した記事を執筆したものの、逆に名誉毀損で訴えられ裁判に負けた雑誌「ミレニアム」の記者ミカエルは田舎で隠居生活を送る実業家からある申し出を受け、逃げるようにその地方の街へと向かう。実業家の屋敷は一本の橋だけが街と繋がっている広大な敷地のある島にあった。ミカエルは40年前にその事実上「密室」から失踪した少女ハリエットの調査を依頼される。捜査を進めて行くうちにミカエルは次第に危険な状況に追い込まれて行く。

スウェーデン版のリメイク作品。ストーリーだけでなく設定もそのままでした。ミカエルが娘に会うシーンは確かスウェーデン版にはなかったかな。なのでミステリー部分の面白さはすでに楽しんでしまっていたので、今回はちょっと違う方向から観ました。

この作品はディヴィッド・フィンチャー監督の作品です。今までフィンチャー作品は、「ベンジャミン・バトン」と「ソーシャルネットワーク」しか観ていないのですがこの2作品と今作を並べてみて、「すれ違う」という関係性があるんじゃないかと思いました。「ベンジャミン・バトン」は老いて生まれ年を経るにつれて若返って行く男性と、ごく普通に年を取る女性との関係を描いた物語でした。この作品では年齢という人がいやでも意識せざるを得ないものがすれ違うことで、独特の皮肉が描かれていると思うんですよね。若さへの賞賛とか羨望を冷ややかに見つめているような。「ソーシャルネットワーク」はネットワークという人と人を結びつける強力なツールを生み出したのに、主人公は見事に周囲とすれ違ってしまいます。ここにもやっぱり冷めた視点があるんじゃないかと思います。で、今作「ドラゴンタトゥーの女」では何が、誰がすれ違っているのか。リスベットとミカエル、ですね。スウェーデン版のミカエルは、善良な男性性の象徴(の割には不倫してる設定なのですが)が色濃く出ているキャラクターだったと思いますが、フィンチャー版ではそうでもないんですよね。こっちのミカエルはしっかりと自分の生活の方に軸足がある。(リスベットと年が近い娘が登場するのもそういうことなのかなと思ったり)リスベットとの関係が性的なものになってもどこかでそういうふうに思っていそうな感じがするんですよね。でもリスベットにとっては違う。彼女にとって男との関係は0か1しかない。(ハッカーだけに)暴力か愛情か、リスベットの中にある複雑な、でも最終的には単純な定義でしか彼女は関係を持てないんじゃないかと思います。(そしてその鮮やかさがこのキャラクターの魅力でもある)お互いに持ちたい距離感がかけ離れている。お互いに都合のいいようにしか関わり合えなくて「すれ違う」。フィンチャー監督の作品にはこういうひんやりとした悪意が横たわっていてそれが魅力なのではないかと思います。

もう一つは時間感覚。スウェーデン版との大きな違いは大量のカットを短時間に挿入するフィンチャー監督独特の映像じゃないかなと思いました。そういう予告(「移民の歌」バージョンの方)もあったし。基本的にスウェーデン版をそのままなぞる展開だったので期待したほどスピーディーな感じではありませんでしたが、背景で雪が風に流されていたりそういう細かいところでスピード感を上げているんじゃないかなと思いました。雪がちらちら降ってるのと、横殴りに吹雪いてるのとじゃ体感的な時間の流れって違うものね。

この作品で何が一番素晴らしいかって言ったら、眼鏡姿のダニエル・クレイグがたっぷり観れたの一点に尽きます。ああっそんなことしたらフレーム歪んじゃうよー!って叫びそうになるくらい乱暴に眼鏡を取ったりとか、なぜか眼鏡があごにかかっちゃってたりとか、いやーやっぱりいい男は何やっても似合うねー。寝起きで頭ぼっさぼさだったり、仮住まいにやって来た猫と遊んだり、猫を「ネコーッ!」って呼んだりしたのがすごくツボでした。うぉう。あとこの人の拷問シーン率がすごく高いです。いつもお疲れさまです。