ねじまき少女

ねじまき少女 上 (ハヤカワ文庫SF)

ねじまき少女 上 (ハヤカワ文庫SF)

ねじまき少女 下 (ハヤカワ文庫SF)

ねじまき少女 下 (ハヤカワ文庫SF)


石油資源が枯渇しゼンマイ仕掛けの機械が普及、エネルギー危機に瀕して格段に進歩した遺伝子操作によって自然のバランスが大きく崩れ、致命的な病気が蔓延する近未来のタイ、バンコク。アンダースン・レイクは、市場で見慣れない果実ンガウに、タイが独自に保存しているという「種子バンク」の存在を嗅ぎ取り調査を始める。


ウィリアム・ギブスン好きならぜひ、と聞いて。大企業の秘書兼通訳兼愛人の美少女アンドロイド(それもお茶を運ぶ江戸時代のからくり人形を彷彿とさせる)エミコとか、遺伝子リッパーと呼ばれる遺伝子操作技術の達人(アーティスト)とか、遺伝子操作された猫がそこら中をうろつき回るジャンクな風景は「確かに!」と思いました。いやーいいよねー。物語に関係なく(関係ないこともないけど)無駄にごちゃごちゃしてて怪しげな路地に踏み込んじゃったみたいな感じ。そこに住んでる人や食べ物が凝縮された濃厚な匂いがしてきそう。エネルギー危機で世界が恐ろしい勢いで縮小するそのスピード感と、狭い場所に圧縮される人々の混沌とした暴力的なエネルギーが全体にあって面白かったです。

この物語は何人かの登場人物の視点から描かれているのですが、それぞれがちょっとずつ関わり合いながら、それらの視点を統合することで世界像を俯瞰する感じでした。ほんと、それぞれが自分のことしか考えてないのよね。特に面白かったのが、マレーシアから虐殺を逃れてタイにやってきた老いた中国人ホク・センとねじまき少女ことエミコかな。ホク・センは本当に社会の底辺中の底辺にいて、雇用主のアンダースンの生活とは真逆のひどい生活ぶりなんですよね。かつてはアンダースン並みにいい生活をしていたと思い出すシーンでそれがいっそう際立つのですが、でもそんな貧困と屈辱の中でも彼は野望を捨てない。夢とか希望なんて生易しいものでは彼を支えることは出来なくて、それはもう野望と言っていいようなものだと思うんですよね。バンコクの混沌とした状況の中で、ホク・センは何度も何度も命の危機に見舞われ、心が折れそうな屈辱にまみれて、手に入れそうな寸前でその野望が潰えても、それでもなぜか彼は生き延びる。この物語は、遺伝子操作というテーマに絡めて自然の淘汰を描いていると思うのですが、ホク・センは真っ先に淘汰されそうなのにしぶとく生き残ります。人間の野望は淘汰されないくらい強い、なんてのんきで強気なことはたぶん描いてなくて(同じように野望を持つ登場人物のそれが潰えているし)、単に自然淘汰の気まぐれによって数奇な運命をたどることになってしまったということなのかなと思います。数奇な運命って端から見る分には楽しいですよね。
もう一人の登場人物エミコですが、彼女はアンドロイド、というか遺伝子操作技術によって生み出された、人間に都合のいい存在なんですね。厳しい躾(きちんと日本流のお作法がみっちり仕込まれてる)の賜物で、ご主人さまにお使えすることが至上の喜びだと刷り込まれているのですが、コンピュータと違って基本的に自分自身で思考します。そのエミコが次第に自分自身は、このまま誰か(ご主人さま)の都合のためだけに生きていていいのかと疑問に持ち始めるんですが、それがこのキャラクターの外見と相まって思春期真っ盛りな悩める美少女になってるんですよね。わたし、このままでいいのかしら。きっとどこかに誰にもお仕えしなくてもいい場所があるはず。ああもう。彼女もまた底辺で、差別や虐待を受けて厳しい人生を強いられているのですが、ホク・センと違ってその希望はものすごく甘いんですよね。そして彼女には実は秘められた恐るべき力があったりして、まるでライトノベルみたいで面白かったですね。

それぞれの視点から俯瞰された世界はものすごく混沌としていて、はっきりとその正体を掴むことはできません。登場人物たちは目の前の狭い視野の中での現実を生き延びることに精一杯です。これは俯瞰するのではなくて、底辺から見上げるべき物語なのかもしれません。それでも雑然としてそこに何かを読むのはとても難しいけど。

あと、元ムエタイ選手で環境省の特殊部隊のようなところの隊長、ジェイディーと、その部下の笑顔を見せない無口な女性カニヤのコンビがすごく好きでした。陽気なジェイディーと冷静なカニヤの対話は混沌とした物語の中でほっとしたり、はっとしたりして面白かったですね。あとジェイディーがめちゃくちゃ強くてカッコ良かった。そうだよなータイならアクションはムエタイだよなあ。