ものすごくうるさくて、ありえないほど近い

人生の中の出来事が、年齢に合わせて起るなんてことはない。40歳の人にも10歳の子にも、ハプニングはいつだって突然で、理不尽だ。

この映画の主人公オスカーは10歳の男の子です。とても繊細で、公園の古いブランコの鎖がちぎれてしまうかもしれなくて乗れない、そういう物事に対する微細な感受性を、経験を積んで受け流すよりも早く身に付けてしまった子です。大変だなあと思うんですよね。自分と回りの物事、人との距離をつかむ前にその世界に飛び込んでいかなければならないこども時代に、その世界の壊れやすさを感じ取ってしまうというのは。そしてオスカーの感覚を肯定するように、ワールドトレードセンターが崩壊します。あんなに壊れにくそうなものもそうそうないのに、いともあっさりと崩れ落ちてしまう映像は多くの人が目にしたと思います。WTCは崩れたけど、ブランコの鎖はちぎれない。意味が分からないですよね。こんなにすぐ壊れてしまうなら、もうなんにも触れないんじゃないか。でも、何も触らずに、外に出ずには生きて行くことはできません。オスカーは様々なアイテムに頼って折れそうな心を支えながら、脆い世界の中でその理不尽さに対する答えを探し続けます。地下鉄や知らない人に怯えながら、その世界に手を伸ばして不器用に触って一つ一つ確かめて行く。それが何かの答えになるとか、救いになるのかというと分からないんですよね。でもそうするしかないし、結局こどものような感受性を失い、様々なことを受け流しながらも大人だって同じことをしてるんだと思うんですよね。この物語では過去は何一つ助けてくれません。出来事は今も昔もあいかわらず不明瞭で確かなものはなにもない。過去を断ち切るのでも、過去の別の側面を見出すのでもなく、今生きている人々だけでこの物語はなんらかの救いを見出そうとするんですよね。それはWTCは壊れたけど、ブランコの鎖はそうそうちぎれない、ということ。手を伸ばして触れる世界はあいかわらずぼんやりとしていてわけがわからないけど、触ったものだけは確かにそこにある。オスカーはその確かなものを一つ一つ記録して行きます。楽しいことも辛いこともすべて。そのどちらにも等しい価値を見出す眼差しに私は驚きとともに心を打たれました。

ちょっとネタバレ




911の犠牲者となったオスカーの父親らしき人物がWTCから落ちた瞬間をとらえた写真の元ネタとなった、実際に撮られたThe Falling manという写真があります。オープニングの空と何者かの影の映像はその瞬間を描いたものじゃないかな。この生と死のまったくのどっちつかずの状態を切り取ってしまう写真という表現方法にすごく感心しました。映画は「落ちて行く」というシークエンスを一つの表現として扱うのに対し、写真はそのカットとカットの間を切り出すことでこういう印象、というか衝撃を与えられるんだなあ。